海洋放出する原発処理水中トリチウムの基準値1500Bq/Lは風評被害を防止するための基準値なのか?

uoichiba 基準値問題

要約

原発事故後の処理水を海洋放出する際に、消費者の懸念を少しでも払拭して風評影響を最大限抑制するための放出方法として、放出水中トリチウムを1500Bq/L以下にすると決まりました。この数字の根拠を探ったところ、リスクベースで決まった値であり、本来以上に安全側に立った基準というわけではないことがわかりました。

本文:原発処理水中トリチウムの基準値1500Bq/Lの根拠

東京電力福島第一原発の事故後に発生した処理水を海洋放出する方針が決まりました。放射性物質を含む汚染水をALPSという装置で浄化し、その処理水を海に放出します。多くの放射性物質は取り除かれますが、トリチウムはほとんど除去できません。

今回の海洋放出ではトリチウムを1500Bq/Lという濃度まで薄めたうえで放出する方針となっています。この海洋放出に関するリスクについてはこれまでに長年議論されており、リスクの懸念はほとんどありません。それでも社会問題化しているのは、海洋放出によって福島県産の魚介類の風評被害が懸念されているからです。このあたりの問題は勝川俊雄さんによる以下の記事によくまとまっています。

YAHOOニュース:基礎からわかる「トリチウム排出問題」

基礎からわかる「トリチウム排出問題」(勝川俊雄) - Yahoo!ニュース
処理水の排出問題が、大きな社会的関心を呼んでいます。中国や韓国が、日本政府を非難しており、国際問題にも発展しかねない雰囲気です。科学的な事実に重点を置きながら、トリチウム排出の背景について論じます。

原発事故から10年経過しましたが、事故後安全性の懸念がなくなってからも福島県産食品の買い控え・安い値段での買い叩きは実際に起こっています。さらに反政府・反原発派は待ってましたとばかりに批判の声を高めるため、社会の不安が増大する懸念があります。

そこで、今回の政府の決定の中でも風評被害への対策が大きく盛り込まれています。

廃炉・汚染水・処理水対策関係閣僚等会議:東京電力ホールディングス株式会社福島第一原子力発電所における多核種除去設備等処理水の処分に関する基本方針
https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/hairo_osensui/alps_policy.pdf

風評被害対策についてこの文書からまとめると以下のようになります。

・モニタリングを行い、その結果を公表することで透明性を高める
・情報発信や双方向コミュニケーションなどで国民・国際社会の理解醸成に取り組む
・福島県やその近隣の水産業などに対して、主要消費地の販路拡大・開拓、観光誘客促進などを支援する
・風評被害が生じた場合には賠償を行う

ところで、この文書でかなり気になった点があります。p8の「(2)風評影響を最大限抑制するための放出方法」の②で、消費者等の懸念を少しでも払拭するようトリチウム濃度を1500Bq/L以下にする、と記載された部分です。1500Bq/Lは風評被害を防ぐための基準なの?その根拠は?と疑問になります。基準値の根拠をメインコンテンツの一つとしている当ブログですので、これは取り上げなければマズイと思いました。

そこで本記事では、まずトリチウム1500Bq/Lという数字はどこから出てきた数字かを示します。その際にトリチウム以外の核種を考慮することが必要になりますので、そのことについても書いていきます。最後に、1500Bq/Lと風評被害防止との関係について考えてみます。

トリチウム1500Bq/Lの導出根拠

トリチウムの1500Bq/Lの根拠にたどり着くのはなかなか大変です。まずベースとなる数字は、「敷地境界線量」と呼ばれるものです。これは、(稼働中のも含めた)すべての原発において、原発に由来する敷地内から敷地外への放射性物質の排出(これを敷地境界線量と呼ぶ)を年間1mSv以下に抑えなければならない、という規制によるものです(年間1mSvの根拠は補足参照)。東電福島第一原発においては事故後5年経過後の2016年にようやくこれを達成することができました。これはタンクに貯蔵されている汚染水のAPLSによる処理が進んだためです。

(参考)資源エネルギー庁:安全・安心を第一に取り組む、福島の“汚染水”対策①「ALPS処理水」とは何?「基準を超えている」のは本当?

安全・安心を第一に取り組む、福島の“汚染水”対策①「ALPS処理水」とは何?「基準を超えている」のは本当?
福島第一原発で進められている「汚染水」への対策。汚染水問題の基礎や最新情報をわかりやすくシリーズでご紹介します。

次に出てくるのは「告示濃度限度」です。ややこしい言葉が次から次に出てきます。1mSv/年以下を達成するために、放射性物質の水中における告示濃度限度が決まります。これは、「放出口における濃度の水を、生まれてから70歳になるまで毎日約2リットル飲み続けた場合に、平均の線量率が1年あたり1ミリシーベルトに達する濃度」になります。これが「トリチウム60000Bq/L」になります。

60000Bq/Lの計算式は以下の資料に出てきます。実際は各年齢で計算しなければいけませんが、成人の場合は以下のようになります:
敷地境界線量(mSv/年)/線量係数(mSv/Bq)/摂水量(L/年)=
1/(1.8×10^-8)/(2.65×365) = 57438

(参考)原子力規制庁:放射性廃棄物に対する規制について 平成30年11月30日
https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/osensuitaisaku/committtee/takakusyu/pdf/011_03_02.pdf

あれ?1500Bq/Lは60000Bq/Lの1/40ですね。これは相当に安全側な数字では?福島の水産業の方に配慮して1/40に設定したわけでしょう?

これは違います。告示濃度限度は「放出水に放射性物質がトリチウムしかなかった場合」の数字です。事故後の原発由来の水にはトリチウムだけではなくセシウムやストロンチウムなど、他の核種も含まれています。さらには、処理水だけではなく事故後のがれき由来など他の排出源もあります。なので、1mSv/年をそれぞれの排出源に割りあてる必要がありました。この結果、トリチウムへの割りあては1/40の0.025mSv/年になるため、1500Bq/Lが基準値になります。

(参考)資源エネルギー庁:安全・安心を第一に取り組む、福島の“汚染水”対策④放射性物質の規制基準はどうなっているの?

安全・安心を第一に取り組む、福島の“汚染水”対策④放射性物質の規制基準はどうなっているの?
汚染水対策のシリーズ第4回は、放射性物質を適切に管理するための「規制基準」が日本でどのようにさだめられているかご紹介します。

結論としては、トリチウム1500Bq/年という基準値は、原発由来の追加被ばくを年間1mSv以下に抑えるためにリスクベースで導出された数字です。言い換えればこれは最低限守るべき数字ということになります。

処理水の他の核種についてはどうなのか?

よくある批判としては、「処理水にはトリチウムだけではなく、他の核種も含まれている。だから危険」というものです。ところが、トリチウムだけを考えるなら60000Bq/Lまで大丈夫で、トリチウム1500Bq/年は他の核種の存在も考慮して決まった値です。

ちなみに、敷地境界線量1mSv/年のうち、排水全体としては0.22mSv/年が割りあてられており、トリチウム以外の基準値は、セシウム134・セシウム137がそれぞれ1Bq/Lずつ、全ベータ線(主にストロンチウム90による)が5Bq/Lとなっています。

(参考):経済産業省 多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会(第2回)‐資料5:地下水バイパスの運用目標(排水の基準)について
https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/osensuitaisaku/committtee/takakusyu/pdf/002_05_00.pdf

(参考)特定原子力施設監視・評価検討会(第62回)資料4:評価対象核種を4核種とした根拠について
https://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/handouts/2018/images2/handouts_180810_06-j.pdf

しかも、ALPS処理によってトリチウム以外の核種は大部分取り除かれていますので、これを踏まえると、トリチウムに割りあてられる分は現状の1mSv/年の1/40よりももっと多くても良いのかもしれません。

一応以下の資料も見てみると、ALPS処理においてトリチウム以外の核種はほとんど取り除けていることがわかります。実際にはトリチウム以外の核種由来の被ばくの合計が1mSv/年の1/100以下になるように希釈されて海洋放出する方針となっています。
(このことを「告示濃度比総和が0.01以下である」などと呼ぶ。用語がめんどくさい。。)

(参考)原子力規制委員会 第85回特定原子力施設監視・評価検討会 資料4:多核種除去設備等処理水の二次処理性能確認試験等の状況について
https://www.nsr.go.jp/data/000334474.pdf

結論としては、トリチウム以外の核種についても十分に考慮されたものとなっています。

トリチウムの海洋放出基準値1500Bq/Lと風評被害防止との関係

ここまででトリチウムの基準値1500Bq/Lの導出根拠については大体整理できました。さて、ここで最初の疑問に立ち返りたいと思います。それは政府の方針にあった「消費者等の懸念を少しでも払拭するようトリチウム濃度を1500Bq/L以下にする」というのはいったいどんな意味か?というものです。

トリチウム1500Bq/Lというのは上記のとおり、原発由来の追加被ばくを1mSv/年以下に抑えるためにリスクベースで決まった値ですので、これを風評被害を回避するための基準とするのは率直に言えば意味不明です。

風評被害を防止する目的ということであれば、本来はこれくらいで安全だけど、風評被害を防止するためにさらなる安全側の値を採用しました!というような説明が必要ではないでしょうか。こういう説明が実のところどこにもないのですね。

もしも、本来は60000Bq/LまでOKなんだけど、その1/40である1500Bq/L以下にして放出するのだからさらなる安全側の値を採用したのだ、というつもりであるのだとしたらこれは間違いですね。

そもそも、60000Bq/Lにしろ1500Bq/Lにしろ、「放出口における濃度の水を、生まれてから70歳になるまで毎日約2リットル飲み続けた場合に、平均の線量率が1年あたり1ミリシーベルトに達する濃度」がベースになっていました。でも、海洋に放出するというのに、その水を毎日2L飲むなんて仮定はあり得ないですよね。

実際には放出先の魚などを食べた時のリスクがどうか、ということをベースにすべきではないでしょうか?以下のサイトでは、現時点で貯蔵されているトリチウムを含んだALPS処理水すべてを1年間で排出した場合でも、魚介類を食べることなどによる追加被ばくは0.000071~0.00081mSv/年程度と推定されています。基準値1500Bq/L以下をまもっています、というよりもこういう数字の方がよっぽど重要でしょう。

(参考)資源エネルギー庁:安全・安心を第一に取り組む、福島の“汚染水”対策⑥ALPS処理水の処分による放射線の影響は?

安全・安心を第一に取り組む、福島の“汚染水”対策⑥処分による放射線の影響をどう評価する?
福島第一原発で生じている汚染水とその対策についてお伝えしてきたシリーズ。今回は、ALPS処理水の処分による影響の評価についてご紹介します。

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2021年4月28日追記:
ALPS処理水すべてを1年間で排出した場合の追加被ばくは0.000071~0.00081mSv/年ですが、実際の放出シナリオではさらに低くて0.0000018~0.0000207mSv/年と推定されています。
https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/hairo_osensui/leaf.pdf
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まとめ:原発処理水中トリチウムの基準値1500Bq/Lの根拠

原発事故後の処理水を海洋放出する際の基準値としてトリチウム1500Bq/Lが設定されていますが、これは原発に由来する敷地内から敷地外への放射性物質の排出(敷地境界線量)を年間1mSv以下に抑えなければならない、という規制がベースになっています。つまり、風評被害を防ぐために本来以上に安全側に立った基準というわけではありません。また、この基準値は処理水を直接飲むことを前提とした計算になっており、排出先の魚を食べた場合とは無関係で、実際に気にするべき数字は基準値よりも魚介類を食べた場合のリスクになるでしょう。

補足

追加被ばくの「安全」レベルである年間1mSvの根拠については本ブログの過去記事に書いていますので、そちらを参考にしてください

東日本大震災から10年。放射性物質のリスク評価・管理を振り返る:その1 リスク評価編
東日本大震災による原発事故後の放射性物質の許容量と基準値の根拠について整理しました。緊急時と平常時、内部被ばくと外部被ばくという軸の組み合わせで4つの許容量があり、それぞれ別々のロジックにて決まっています。許容量が決まれば後は、実効線量換算係数などのパラメータを使って食品中濃度に換算することで、食品中放射性物質の基準値が決まります。
東日本大震災から10年。放射性物質のリスク評価・管理を振り返る:その2 リスク管理をめぐる3つのポイント
放射性物質のリスク管理では、内部被ばくと外部被ばくは別々に管理されており、全体の許容量があいまいなままになっています。また、許容量はリスクベースではなくALARA(As Low As Reasonably Achievable, 合理的に達成可能な限り低く)の原則で決まっており、何をもってALARAかという説明が不十分でした。さらに、検査の意味もリスク評価のためではなく基準値以上の食品をはじくことに意義を求めすぎてしまいました。

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