要約
リスクホメオスタシス理論は交通安全分野で生まれ、安全対策を採った分だけ危険な行動が増加するため結果としてリスクはあまり変わらないという理論です。この理論を用いてコロナ感染者数が何度も増減を繰り返す理由を考えます。集団の中のリスク許容度の差が大きいことが重要になります。
本文:リスク・ホメオスタシス理論とコロナ感染
デルタ株を中心とするコロナ第5波は2021年8月にピークを迎え、その後は急激な減少が見られています。そしてこの急激な現象の理由についてさまざまな人が独自の見解を出しています。
相変わらず「たいしたことないと俺は最初から知っていた」論者もいます。これについては本ブログでも記事にしていますのでそちらをご覧ください。
私としては、コロナの感染者数が上下するのはリスクホメオスタシス(リスク補償)が働いているとしか思えない、と以前から感じていました。しかしながら素人考えを開陳するのも恥ずかしいので、今までそういう考えをブログで書いたりはしませんでした。
ところが、感染症数理モデルの第一人者である京都大学の西浦教授も同じようなことを言うようになったため、それほどとんちんかんな考えではなかったと思えるようになりました。以下の記事で「仮説1:リスク認識による自粛と緊急事態宣言での接触減」として紹介されているものです。
BuzzFeedNews:デルタ株にオリンピック、お盆や連休……それでもなぜ感染者は減った?西浦博さんが4つの仮説を検証
他方、より重要だと考えているリスク回避行動があります。例えば「感染状況が悪いから今は食事をやめておこうか」と皆さんが行動を変える判断をしたことが、相当、効果があったと考えています。
(中略)
他方、定量化することは困難なのですが、感染者数の増加や医療逼迫に伴って皆さんの心理がどれほど変わるのかも極めて重要です。
(中略)
実は、夜間滞留人口を分析していると、「過去最高」というニュースが連日報じられた時に滞留人口が減少することはこれまでも水面下でわかっていました。
(中略)
でもそれが中心的な影響だったとすると、逆に皆さんが「大丈夫」という認識になるとまた感染者が増え始めることが考えられます。リスク認識の影響は、両刃の刃のような存在です。
(中略)
だから主な影響として疑いなく言えるのは、心理的インパクトだと思います。心理的インパクトは数値化するのが困難ですが、他の点については、いくつかの分析はしていますので、より詳細な分析は今後研究として報告します。
つまり、大体受け入れられるリスクレベルはそれぞれみんなの中にあって、今日の感染者数や病床ひっ迫状況が毎日報道される中で、今ならリスクの高い行動をしても大丈夫だろう、今はヤバイだろうとちゃんと自分で判断して行動しているのではないか?ということですね。
本記事では、まずリスクホメオスタシス理論について改めて解説し、本ブログでおなじみのTwitterの解析から自粛ムードの時系列変化について見ていき、最後にコロナの感染拡大・縮小や対策による状況の変化と自粛率の変化について図で説明を試みます。
リスクホメオスタシス理論(リスク補償)とは何か?
ここでは改めてリスクホメオスタシス理論について解説し、コロナ対策に関係する文献を紹介します。
リスク学事典(2019年度版)によると、リスク・ホメオスタシス理論はオランダ生まれの交通心理学者ワイルドによって1970年代に完成された理論で、どのような活動であってもその活動による利益と引き換えにある一定水準のリスク(この場合主観的な推定値)を許容する、という考え方です。つまり、どれだけリスク低減対策が採られても、人々がその活動と引き換えに許容できるリスクレベルも同時に下げない限り、高リスクな行動への変化により元のリスクレベルに戻ってしまいます。
リスクホメオスタシスについては本ブログでも過去に免罪符効果についての記事の中で触れたことがあります。
主に交通安全対策の文脈で使われており、例えば自動車保険に入っているから、ABSがついいているから、エアバッグがついているから、などの理由で危険な運転をしても大丈夫と思ってしまう傾向があったりします。そうなると結局のところリスクは下げられません。
コロナ対策に関連するものでは国内の研究は見つけられませんでしたが、海外ではかなり研究されているようです。ただし、海外のリスクホメオスタシスの研究は、マスク着用とその他の行動(ソーシャルディスタンスなど)とのリスク補償行動に焦点を当てたものが多くなっています。そしてリスクホメオスタシスには否定的な結果になっています。
また、イギリスで行われた以下の研究によると、一般的なリスク許容度の高い人(リスクテイカー)はコロナ禍でもやはりリスクテイカー(感染予防措置が弱い)であることが示唆されました。そして、あるリスクを取るから別のリスクは取らないでおこう、というリスクホメオスタシス的な行動は見られなかったとのことです。
Guenther et al. (2021) Heterogeneity in Risk-Taking During the COVID-19 Pandemic: Evidence From the UK Lockdown. Front Psychol, 12:643653.
他にも以下のnature系列の雑誌では、ワクチンを打つことでリスクのある行動を増やすようになるとワクチンの効果を埋め合わせてしまうため、そのことに警告がなされています。
Ioannidis (2021) Benefit of COVID-19 vaccination accounting for potential risk compensation. npj Vaccines, 6, 99.
ただし、感染拡大状況とリスク行動の関係についての研究は見つけられませんでした。海外では日本のような「自粛」要請ではなく、ロックダウンなどの強力な規制で感染対策を行うため、あまりそういう視点で研究されないのかもしれません。心理状況の変化で感染の増減が起こるという日本独自の研究ができる可能性がありますね。
Twitterの解析から自粛ムードの推移を考える
規制による感染対策と言えば、緊急事態宣言による飲食店の営業時短、酒類提供停止、イベントの制限などがあります。しかしながら、規制以外に自粛の要請(本来自粛は自主的なものであって要請するものではないのですが)も大きな要素となっています。どちらの効果がどれくらい大きいかについてはあまり定量的な知見は得られていませんが、上記の西浦教授による解説でも自粛の影響が大きいことが考えられます。
心理的インパクトは数値化が難しいと西浦教授は語っていますが、そんなことはないと思います。そこで、本ブログで毎度行っていますが、Twitterの分析により自粛ムードの推移を見ていきたいと思います。以前にコロナ慣れについて分析した結果は以下の記事をご覧ください。
「リスク」を含むツイートを毎週1万ツイートずつ収集する定点観測を続けています。これまで収集した「リスク」を含むツイートを再解析し、毎月1か月分のツイートの中からさらに「自粛」というワードを含んだツイート数を数え、全ツイートに対する割合を計算しました。その推移を下のグラフに示します。
自粛を含むツイートの割合は、感染拡大第1~5波に対応して同じ時期にピークが見られます。実際にどのくらいの人が自粛したかまではこの分析からはわかりませんが、これを(あいまいな表現ですが)自粛ムードの指標とみなします。最も自粛ムードが高かったのは2020年4月で、実際の人流も非常に低くなっていました。反対に最も自粛ムードが低かったのは2020年10月でGo Toトラベルが盛り上がった時期になります。
ピークの高さは第1波->第5波と進むについてれて徐々に下がってきています。これはいわゆる「自粛疲れ」を表していると考えられます。
このため、緊急事態宣言による規制をかけてもピーク時の感染者数が第1波->第5波に進むにつれて徐々に拡大していることにつながっていると考えられます。もちろん変異株の影響もあり、同じ対策ではダメになってきているということもあるでしょう。
ただし、このグラフの自粛ムードのピークは第4波(2021年4月)よりも第5波(2021年8月)の方が高くなっています。第5波の方が全国的に感染者数も医療ひっ迫度具合もひどくなっており、これが自粛ムードを上昇させたのではないでしょうか。
このように、自粛疲れはあっても、やはり感染拡大状況にきちんと自粛ムードは反応することがわかります。上記の西浦教授の仮説と矛盾しない結果です。
リスク許容度の分布から考えるリスクホメオスタシス
コロナの感染者が増減する現象におけるリスクホメオスタシスは、集団の中のリスク許容度の差が大きいために起こると考えられます。これを概念図にすると以下の図Aのようになります。
中間くらいの人が一番多く、それより右側に行くほどリスクテイカーになりますが人数的には少なくなる、という釣り鐘型(正規分布型)をイメージしています。
次に、図Aと同じようにコロナ感染拡大状況と自粛する人の関係を表してみます。現状の感染状況を赤丸で示し、どの感染拡大レベルで自粛し始めるかの頻度をオレンジの曲線で表します。感染が拡大するほどに自粛する人が増えますが、一部のリスクテイカー(塗りつぶした部分)は自粛せずに感染リスクの高い行動をとります。これを表したのが図Bです。
図Bの状況では自粛する人が多いので、感染は収束し図Cの状態に移行します。そうすると赤丸が左側に移動しますので、リスクの許容度が中くらいの人まで自粛しなくなります(塗りつぶした部分が広がる)。自粛しない人が増えると感染は拡大し、図Bの状態に戻り次の感染の波が生まれます。
さてこれとは別に、図Bの状態においてコロナ病床を拡大するなどの対策を採ったと仮定します。その場合、感染が拡大しても医療ひっ迫度が抑えられるため、まだ大丈夫という感覚が広がり、リスク許容度の曲線が全体的に右側に移動します。この状態が下の図Dの状態です。感染が収束したわけでもないのに(赤丸の位置は同じ)、曲線が動いたため自粛しない人が増え、さらに感染は拡大します。
つまり病床の数をいくら増やしても、もう医療がヤバイという感覚になるまでは自粛しないために、結局のところ医療がパンクするまで感染が拡大することになります。第1波から第5波にかけて病床は相当数増えていると思われますが、波が来ると医療は常にパンク状態になるわけです。
第5波ではワクチン普及の影響もあって急激に感染が収束に向かっていますが、ワクチンを打ったので大丈夫という感覚からさらにリスク許容度の曲線が右側に動き、次の波ではやっぱり医療がパンクするまで感染が増えてしまうのでは、という懸念があります。
こんな感じで、個人の中でというよりも集団の行動でリスクホメオスタシスが保たれる、というイメージを考えるとよいのでしょう。
ただし、リスクホメオスタシスが働くからコロナ対策をどれだけやっても無駄というわけではありません。ワクチンを普及したり病床を増やしたりすることで、経済活動の制限を以前ほど厳しくしなくても同程度のリスクを保つことができるようになります。
また、自粛ムードは実際の感染状況や医療ひっ迫度というよりも、心理的なリスク認知に基づいているため、しばし間違えるときがあります。オリンピック開催の影響がそういうところに働いたとも言われています(実際のところどの程度の影響かはわかりませんが)。
それでも新しいリスクとの付き合い方に心の折り合いがつくのはそれなりに時間がかかるので、少し長い目で見ていく必要があるでしょう。こればかりは感染症の専門家が騒いでもどうにもなりません。
まとめ:リスク・ホメオスタシス理論とコロナ感染
リスクホメオスタシス理論は交通安全分野で生まれた概念で、安全対策を採った分だけ危険な行動が増加するため結果としてリスクがあまり変わらないという理論です。これまでの研究ではマスクをしているからソーシャルディスタンスはとらない、などのリスク補償行動は否定されていますが、集団としてのコロナ感染状況と自粛行動の関係はこれまできちんと調べられていません。
Twitterの分析結果、自粛疲れが見えつつも自粛ムードはコロナ感染ピークとほぼ連動していました。コロナ感染者数が何度も増減する理由は、集団の中のリスク許容度の差が大きいために起こるという説明が可能です。
補足
冒頭に紹介した西浦教授のインタビュー記事では、仮説1のリスクホメオスタシス理論と、仮説2のワクチンの普及の合わせ技で感染が減少したのでは、と解説されています。
そして、ワクチンの効果などは科学的なアプローチが可能だが、心理的な要素については科学的なアプローチが難しいと話されています。
それぞれの宣言でどれだけ減るかは、その要請がどれだけ皆さんの心に響いて、皆さんがどれだけ従ってくれるかにかかっています。だから科学的に措置内容で制御することは難しいのです。
心理学は科学ではないと考えておられるのかどうか、これだけでは真意はわかりませんが、リスク管理に心理学は不可欠であることは以前から常識になっていると私は思っていたため、これを読んでだいぶびっくりしました。心理学の専門家も活躍の場がまだたくさんありそうですよ。
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