知床観光船事故から考える、事故が起こってからの規制強化と事前のリスク評価ベースの安全対策の違い

floater リスクガバナンス

要約

知床観光船沈没事故を受けて船舶の規制強化が議論されようとしています。事故が起こってからの規制強化と事前のリスク評価ベースの安全対策という二つの安全のカタチがありますが、船舶安全の分野ではFormal Safety Assessment(FSA)という後者のフレームが整っています。

本文:船舶安全から考える二つの安全のカタチ

2022年4月23日に発生した知床観光船カズワンの沈没事故は死者・行方不明者26人を数え大きなニュースとして報道されています。今回の記事は船舶の安全性とリスク管理について取り上げます。

船舶事故による死者・行方不明者は以下の図を見ると減少傾向にあることがわかります。

内閣府:令和3年交通安全白書

第1章 海難等の動向|令和3年交通安全白書(全文) - 内閣府
内閣府の令和元年版交通安全白書(全文)(HTML形式)を掲載しています。
船舶事故

ただし、今回のような注目度の高い大きな事故が起こると規制強化に向かうのが通常です。今回も以下のニュースにあるように、早速規制強化の検討が始まるようです。

NHKニュース:観光船遭難 小型船舶の安全対策を検討 有識者委設置へ 国交省

エラー|NHK NEWS WEB

北海道 知床半島の沖合で11人が死亡、15人が行方不明になった観光船の遭難事故を受けて、海上分野の法律などに詳しい有識者による委員会を28日にも設置するとしています。

委員会は大型連休明けに初会合を開き、観光船などの小型船舶の安全対策を法的規制も含めて検討するということです。

具体的には、事業者に対する安全対策の確認の強化や、天候を踏まえた運航の判断基準などについて議論し、この夏までに結論を得ることにしています。

斉藤大臣は「岸田総理大臣の指示を踏まえ、二度とこのような事故を起こさないよう、安全対策を総合的に進めていく」と述べました。

私は船舶安全の専門家ではないのでこの中身について論じるというよりも、このような事故が起こった後に規制強化を繰り返すというリスク管理のあり方について論じたいと思います。

まず、2種類ある安全のカタチとして、事故後の規制強化と事前のリスク評価ベースの安全対策の違いについて説明します。次に、船舶における安全のためのFormal Safety Assessmentについて説明し、最後に船舶以外の交通安全分野における安全目標と比較を行い、今回の事故後の対応について考えてみます。

2種類ある安全のカタチ

世の中から求められる安全のカタチは過去から現在にかけて大きく変わってきています。それは、わからないものはまず「安全」とみなす考え方から、わからないものはまず「危険」とみなすという考え方に転換してきたからです。

安全のカタチ1:わからないものはまず「安全」とみなす
事件や事故が起きてからその結果をもとに法律などによる規制を行う
事業者側の主張の例)厳しい規制を守ってるから安全です!

安全のカタチ2:わからないものは「危険」とみなす
事前にリスク評価を行い、リスクが許容レベル以下であることを示し、そのことを社会に受け入れてもらわないと実用化されない。
事業者側の主張の例)我々が扱うもののリスクはこのくらいで、これは許容範囲内です!

前者はクルマなどの交通機関であったり、後者は遺伝子組換え作物やAI・ロボットなどであったりします。原発も最初は前者でしたが現在は後者になっていますね。

安全のカタチ1のほうは目に見える事故がありそれに対応するやり方なので、何かをやったというインパクトが強く残ります。一方で安全のカタチ2のほうは事故の未然防止であり、起こっていないことを想像することが難しいため、世間のウケはあまりよくありません。

安全のカタチ1の例を挙げてみます。通学路で壁が崩れて死者が出る事故が起こると、全国の壁の一斉点検が行われ、小学生はヘルメットの着用が義務付けられたりしました。その場では対策をした気分にはなりますが、それによってどれくらいリスクが下がったのかは誰も評価しておらず、そのうち事故の記憶が薄れるにつれ誰もヘルメットをかぶらなくなります。

コロナ対策においても、感染した人を治療すること(医療体制の充実や治療薬の開発)は評価されますが、ワクチンで予防するほうが効果が高いにもかかわらずワクチンは世間ではあまり好まれません(ワクチンがなぜ嫌われるかについては補足参照)。

規制や制度のようなものになると効果の評価も複雑になるため、政治が絡むとどうしても「世間にウケる対策かどうか」が判断基準になってしまいます。安全のカタチ2が求められるはずの現代社会でリスク評価がなかなか進まないのはこのような背景があります。

船舶における安全のためのFormal Safety Assessment

Formal Safety Assessmentとは

船舶における安全の分野では「Formal Safety Assessment(FSA)というしっかりとしたリスク評価-管理のフレームがありますので、ここではそれを紹介していきます。

Formal Safety Assessment

FSAはリスク評価と費用対効果の評価を行い、コスパの高い安全対策を進めるための国際的に合意された手続きです。参考にするのは以下の文献です。

金湖富士夫 (2007) FSAによる船舶安全基準の新たな策定方法. 安全工学 46(1), 2-9

FSA による船舶安全基準の新たな策定方法
J-STAGE

日本学術会議 (2014) 工学システムに対する社会の安全目標(p60~67)
https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-22-h140917-2.pdf

船舶の国際的な安全基準は、1912年のタイタニック号の事故がきっかけとなったSOLAS条約に始まり、その後1948年に設置された国際海事機関IMO(International Maritime Organization)が維持・改正を続けています。

かつては大事故が発生するたびに改正が行われ、事故直後の状況から不必要に過剰なものとなりがちであり、さらに政治的な要素が強いためあまり合理的ではなかったようです。つまり、安全のカタチ1のやり方だったわけですね。

FSAはこの安全のカタチ1に対する問題意識から提案されたもので、事故が起こる前からリスク評価によって安全基準を策定するという安全のカタチ2を採用したものになっています。

FSAの5つのステップ

FSAの具体的な手続きは以下の5つのステップから成り立ちます:
1.ハザードの同定
2.リスク評価
3.リスクコントロールオプションの立案
4.費用対効果の評価
5.意思決定措置

1.ハザードの同定のステップでは、事故に至る要因(ハザード)を特定し、発生頻度と発生した際の影響度の2軸によるリスクマトリックス法(詳しくは補足参照)を用いて優先度の高いハザードを特定します。

2.リスク評価のステップでは、事故シナリオの解析を行い個々の事故シナリオにおけるリスクの大きさを求めます。リスクの指標として、個人リスクでは個人が船舶を利用している期間中のその個人の死亡頻度を示し、社会リスクでは1隻1年あたりの死者数が使われます。そして、リスク許容基準と比較して判定を行います。

個人リスクのリスク許容基準で使われるALARP(As low as reasonably practicable)はALARA(As low as reasonably achievable)の英国における解釈であり、以下の図のように表されます(ALARAの原則について詳細は補足参照)。耐容可能領域は乗客を対象とする場合、生涯死亡率が10-6~10-4の範囲とされています。リスクが10-6以下の場合はさらなるリスク管理措置は不要で、ALARP領域の場合は費用対効果の高い対策があれば実行し、10-4以上であれば費用対効果に関係なく対策が必要となります。

ALARP

3.リスクコントロールオプションの立案では、複数の対策案を検討し、導入した場合のリスク低減効果を推定します。

4.費用対効果の評価では、3で検討した対策のコストを評価して、費用対効果もしくは費用便益分析の観点から対策案の優先順位を決めます。便益としては確率的生命価値として300万米ドル(1ドル120円で3億6000万円)を使います(人命1つ救うコストがこれ以下ならコスパがよいと判断)。

5.意思決定措置では、実際にどの対策を導入するかを決定します。

これはいわゆる「解決志向リスク評価」と呼ばれるやり方になっており、リスク評価とリスク管理を分離するのではなく一体的に考えるものです(詳しくは補足参照)。非常に先進的なフレームができていると言えますね。

交通安全はどちらの安全のカタチを採用するのか?

さて、FSAの参考文献として挙げた日本学術会議の報告書では、船舶以外にも鉄道や自動車(道路交通)など他の交通安全についても書かれています。これらを比較するとそれぞれかなり考え方が違うのが興味深いところです。

鉄道では(鉄道事業者の責任による)事故は「あってはならないもの」であり、基本的にゼロリスクが追及され、リスクの存在自体も認めていない印象を受けます。報告書のなかでも新幹線の事故ゼロが強調されています。現状どの程度のリスクがあり、そのリスクが許容可能かどうかという議論が全くないわけですね。安全のカタチ1が継続されている状況のようです。

自動車では、5年ごとに交通安全基本計画が作成され、死者数年間〇〇千人以下などの安全目標が設定されています。令和3~7年度の第11次計画では2000人以下が目標です。リスク評価のようなステップは出てきませんが、実際の死傷者数や事故の発生データなどの大量のデータがあるため、それがリスク評価の代わりになっていると思われます。つまり事前評価のステップがないわけです。また、2012年に発生した高速バスの大事故などで運転距離の規制が強化されるなど、安全のカタチ1のやり方が依然として残っています。

もう一度学術会議の報告書に戻ってみましょう。p2-3にある以下の記載は非常に重要なポイントです。


工学システムにおける安全目標は、「リスクをゼロにする」という理想を掲げるだけでは現実的な目標になりえず、科学的合理性に基づき決定することにより、具体的な安全の向上を図るべきである。

船舶の安全分野はFSAというせっかく非常に優れた解決志向リスク評価のフレームがあるのですが、冒頭に示したように感情論的な事故後の規制強化が進む懸念もあります。

有識者会議で検討されるとのことですが、有識者がリスク評価をベースとする冷静な議論を行おうとしても、目に見える(世間ウケのよい)手柄をすぐに立てたい政治家や行政によって覆されることもあるかもしれません。

国による規制だけが議論されているようですが、事業者自身のリスクマネジメントも必要になるでしょう。事業者自身もリスク評価を行い(船のスペックや航行ルートによってもリスクが全然違うはずなので)、どのような根拠でどのような場合に運航を見合わせるかという安全管理ルールを明示するようにしてはどうでしょうか。乗る側もそれを見てマトモな会社かどうかを判断できるようになります。

まとめ:船舶安全から考える二つの安全のカタチ

船舶安全の分野ではFormal Safety Assessment(FSA)という、事前のリスク評価や対策の費用対効果の分析から効率的なリスク管理を行うガバナンスのフレームがあります。これに対して交通安全分野全体としては、事故が発生してから場当たり的に規制を強化するという旧来の安全のカタチが依然として残っており、知床観光船沈没事故を受けて船舶の規制がどのようになっていくが注目されます。

補足:関連する本ブログの過去記事

水難による死亡リスクを計算した記事。

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