リスク評価はファクトではないその3~リスク評価の中に潜む価値判断~

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要約

「リスク評価は専門家が行うものなので完全に科学的なもの」というわけではなく、その中にはさまざまな価値判断も含まれています。特に「そもそも何を評価するか?」という部分には価値観が大きく反映されるので、専門家以外のかかわり方も重要になります。

本文:リスク評価と価値判断

「リスク評価はファクトではない」ということについて本ブログではこれまで2つの記事を書いています。

リスク評価はファクトではない~断片的なファクトから問題解決につなげる作法~
リスク評価はファクトではなく、むしろ「ファクトがわかってからでは遅すぎる」という問題に対応するための作法と言えます。断片的なファクトを最大限有効に活用して、知見が欠けている部分は推定や仮定を置いて穴埋めし、政策などの意思決定の根拠として活用できるようにしたものです。
リスク評価はファクトではないその2~純粋科学とレギュラトリーサイエンスの考え方の違い~
日焼け止めで淡水生態系は致命的な影響を受けるのか?というテーマから、ファクトを追及することを目的とする純粋科学と、意思決定の判断材料を提示することを目的とするレギュラトリーサイエンスの考え方の違いを解説します。例えば純粋科学では日焼け止め成分をミジンコに曝露させたら死んだというファクトを重視しますが、レギュラトリーサイエンスではミジンコに対する無影響レベルはどれくらいかを重視します。

3回目となる今回は、リスク評価の中に潜む価値判断について取り上げます。

安全とは「許容できないリスクがないこと」であり、リスク評価は専門家が行うものですが、許容できるかどうかは社会が決めることです。つまり、安全には価値判断的なものが入るので科学のみで決まる問題ではありません。よって、「安全は科学的なもの、安心は主観的なもの」という安全安心二分論は誤りであることがわかります。

じゃあリスク評価は専門家が行うものなので完全に科学的なものと言っていいよね?

いいえ、実はそうではないのです。これもまだまだ誤解の大きい部分かと思います。リスク評価は科学と社会の中間にある「レギュラトリーサイエンス」であるということはできますが、この中には価値判断や政策判断みたいなことも多分に含まれているのです。ところが、専門家と呼ばれる人であっても以下のような書き方をしています。(このツイートはおそらくそれ以前のリスクと安全の違いの話をしているものと思いますが)

政府の判断にリスク評価が取り入れられた後に「科学的に決めました」と説明することが多いのですが、これは説明がラク、説得力が出る、科学者に決定の責任を押し付けられる、などのメリットが説明する側にありました。

ところが、この「科学的な決定」に不満がある人は「反科学」になるしかなくなり、どんどん反科学に傾倒していくことになります。これが「科学的に決めました」と言い過ぎてきたことの弊害と言えるでしょう。そのような人に対して「科学オンチ」などとレッテルを貼って見下していくとさらに分断は深まり、コミュニケーションが難しくなります。

実際には、リスク評価に不満があるとき、科学の部分ではなく評価の中に潜む価値判断の部分に不満がある場合が多いのではないかと考えられます。そのことをうまく言語化できる人は少ないので、そこをちゃんとくみ取っていく必要があるでしょう。

本記事では、不確実な場合の穴埋めとそもそも何を評価するか、というリスク評価における二種類の価値判断について解説します。また、価値判断についての市民のかかわり方についても論じます。

リスク評価における価値判断

まず、リスク評価における価値判断は大きく二種類に分けられます。

一つ目は、不確実な場合の穴埋めです。リスク評価はファクトではなく、むしろ「ファクトがわかってからでは遅すぎる」という問題に対応するための作法と言えます。もう一つはそもそも何を評価するか?という判断です。

まずは不確実性への対応について説明します。「純粋に」科学的な態度でリスク評価に臨むならば、不確実なことは「わからない」と結論付けるのが真に誠実な態度になります。ただしこれでは科学的な態度ではありますが役に立ちません。

評価に必要なデータがないなどの不確実性に対処するためには、すでにある周辺の科学的な知見をベースにして、仮定や推論を置いてなんとか穴埋めします。その際、なるべく安全側の仮定を置いて、リスクを過小評価するよりも過大評価になるようにしたりします。こういう判断はすでに価値判断・政策判断の領域です。

コロナ対策でいえば、初期の第1波の際に「対策なしなら42万人死亡」という予測が出されました。これは前半の「対策なしなら」という仮定の部分と「42万人死亡」というリスク評価のセットになっています。対策を全くしないという仮定は現実にはあり得ないことなので、リスクを過大評価する仮定を採用していることになります。

この42万人死亡予測は社会に警笛を鳴らす意味が大きかったと思われます。リスクを過大に評価することこそ専門家の責務であるなどと考える人もいるようですが、これこそ「価値判断」の世界であって科学ではありませんね。

そもそも何を評価するか?という価値判断

次に、リスク評価における価値判断の二つ目としての「そもそも何を評価するか?」の判断について説明します。

リスクの指標と言えば死亡率が良く使用され、本ブログでも基本的に死亡率を用いたリスク比較を行っています。「死にたくない」というのは誰もがそう思うので、死亡率というリスク指標の適切さが議論されることはあまりないのですが、何をリスク指標とするかは実はもっと大きな話なのです。

死までいかずとも病気がちで貧乏で孤独で不安な状況が続いていれば幸福度は非常に低くなるでしょう。さらには死に方にしても、病気で死ぬのは仕方ないけど殺されるのはイヤだ、などの区別だってあるでしょう。

このようなことを突き詰めると「どのような世界に生きたいのか?」という話になります。我々は決して不老不死の世界に生きたいわけではありませんが、「みんなが長生きできる世界が良い」というのはおおむねコンセンサスが取れる価値観である、というだけなんですね。

例えばコロナ対策においても、感染者数、致死率(感染者数あたりの死者数)、死亡率(人口あたりの死亡率)、病床使用率などが計測されて日々伝えられています。リスク評価においても、今後の感染者数・死者数の予測や新たな変異株の致死率などが評価されています。

このような数字の計測・リスク評価に基づいて感染症の専門家はさまざまな判断を行いますが、感染症の専門家以外はもっといろいろな要素を考えます。

マスクもせずに大人数で大騒ぎして感染した人と、完璧に防御してきたけどたまたま感染してしまった人を分けてカウントしてほしいと考える人もいるでしょう。

観光や飲食、イベントなどで生活している人にとっては感染者数よりも人流の低下度の方がよっぽど気になるはずです。観光地で商売していてコロナに感染する前に経済的に死んでしまうと感じる人が多かったでしょう。

コロナ対策として病院における入院患者への家族面会が制限され、看取りができなかったことによる患者のQOD(Quality of Death)の低下と家族の悲嘆の増加なども問題となっています。

このようにリスク評価のベースとなる「何を測るか?」は幅広いものがありますが、そこから「何を選択するか?」という部分にすでに価値判断が入っているわけです。

このことについてリスク心理学の大家であるポール・スロビック氏は「リスクを定義することは権力の行使に他ならない」と表現しています。リスク指標を決めることは「目指すべき世界」を決めることと同じであるからです。

リスク評価は血も涙もない?

リスク評価は死亡率などを淡々と計算して比較するので「血も涙もない」などと言われることがあります。

ここまで説明してきたように、リスク評価は「死ぬ人が少ない方がいいよね」などの価値判断に基づいて死亡率を分析しているだけで、血も涙もないわけではありません。リスク評価がベースとしている価値判断とその人の価値判断に差がある状態だということですね。「俺が重視する価値は人の生き死にだけじゃないぞ!」みたいな話です。

その価値判断の部分を「専門家だけ」で決めるよりも、市民がどのような価値判断を望むのかということも考慮していくべきでしょう。

コロナ対策のように政策に科学が重視される場面において、専門家の側が「これが科学的判断だ、異論は認めない、素人は黙ってろ」という態度に出ることがありますが、価値判断の部分においては市民の意見にも価値が出てきます。

ただし、市民の方がむしろ(都合の良いあるいは雑な)科学を盾にものを言う場合が多かったりもします。これも「科学的に決めました」の弊害ですが、「科学的な決定」に不満があると「科学の部分をひっくり返さないといけない」と思ってしまうのですね。市民は科学の部分ではなく価値判断の部分で十分貢献できるのです。

さらに難しいのは、「リスク」の扱う概念がクラシカルな「財産・健康・環境」から、プライバシーや人権、倫理みたいなところに広がりを見せる中で、「社会はこうあるべき」という規範と個人の感情の差はますます広がっているように思います。

「差別・偏見はダメ」という規範と同性愛への感情的嫌悪感のようなものとか、「プライバシーは守るべき」という規範とコロナにかかった人が誰かを知りたいなどの感情とか、いろんなものがぶつかり合うことがあります。社会の多様性が高まるとこのような問題はさらに大きくなるでしょう。

また、リスク評価に価値判断が入っているからといって「リスク評価は客観的ではない」と言ってしまうのは、私はあまり好きではありません。ある価値判断(=ある程度コンセンサスが得られるものであって、「俺はこう思う」みたいなものではない)をベースにこんな仮定を置き、こういう計算をするとこうなる、というのはプロセスが公開されていて再現ができるという意味で客観性があると思うからです。

まとめ:リスク評価と価値判断

人はみな長生きすべきとか、死者が少ない方が良いとか、「そもそも何を守りたいのか?」「どんな人生が良い人生なのか?」というのは価値判断の話であり、そのような価値判断をベースにリスクが評価されています。リスク評価は血も涙もないと感じたときは、リスク評価の中に潜む価値判断と自分の価値観を比較してみると良いでしょう。

補足

リスク評価と価値判断については、これまで本ブログで以下のような記事を書いています。

安全の定義:

コロナウイルスとのたたかいは何をもって収束と言えるのか?都道府県独自基準のからくり
安全とは「許容できないリスクのないこと」と定義されるので、許容できないリスクの定義が必要です。コロナウイルス対策に関しては医療崩壊が起こることが許容できないリスクとみなされ、都道府県ごとに異なる状況にあわせて独自の基準が出されてきました。

化学物質のリスク評価における価値判断:

リスク評価はファクトではない~断片的なファクトから問題解決につなげる作法~
リスク評価はファクトではなく、むしろ「ファクトがわかってからでは遅すぎる」という問題に対応するための作法と言えます。断片的なファクトを最大限有効に活用して、知見が欠けている部分は推定や仮定を置いて穴埋めし、政策などの意思決定の根拠として活用できるようにしたものです。

コロナ対策の事例:

コロナウイルスのリスクガバナンスにおける科学と政治その7:オリンピックの開催是非は専門家が判断することなのか?
オリンピックの開催などをめぐって科学vs政治の対立構造があおられていますが、科学と政治の間に位置づくレギュラトリーサイエンスの観点が重要です。専門家がリスク管理に踏み込むのは緊急事態であることを考えれば仕方ありませんが、これが標準的なやり方ではありません。リスク評価の限界やリスクが許容可能かどうかの議論の必要性などの論点を整理します。

公衆衛生と個人の自由の間の価値観の対立について:

公衆衛生か個人の自由か?その2:皆にPCR検査を受けさせるべきかどうかは価値観の対立である
要約国民全体の健康のために〇〇すべきという公衆衛生的な視点と個人の自由には価値観の対立が存在します。コロナウイルスのPCR検査についても、無症状の方への検査は推奨されないという公衆衛生的な視点と、検査を受けて安心したいという個人の視点があり、これも価値観の対立であると考えられます...

なぜコロナの死者数は増えているのに世間での関心は下がり続けるのか?:

なぜコロナの死者数は増えているのに世間での関心は下がり続けるのか?
コロナの死者数はオミクロン株になってから増加していますが、反対にコロナへの世間の関心度は低下しています。世間の関心の低下度をソーシャルリスニングの手法を用いて示し、ニュースで取り上げられなくなった理由などを解説し、最後にリスク心理学的な考察を試みます。

ポール・スロビック氏による「リスクを定義することは権力の行使に他ならない」の出典

https://www.amazon.co.jp/dp/4150504105

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