要約
危険をあおるほどインパクトファクターの高い科学雑誌に論文が掲載されやすい、という近年の環境科学に対するへの違和感の正体について、(1)科学と社会運動(〇〇すべき)の混在、(2)「リスクを減らしたい」ではなく「悪いものに罰を与えたい」という感情、(3)「正しさ」の押し付け、という3つの視点から整理しました。
本文:環境科学への違和感の正体
環境科学は社会へのインパクトが求められるため、インパクトファクターの高い雑誌(一般的に高いほど良い雑誌と見なされる)ほど、「〇〇はキケン!」という結論の論文が掲載されやすくなります。たくさん分析したけどどれも懸念レベル以下でした、という内容の論文は決して価値が低いわけではないのですが、インパクトファクターの高い雑誌には掲載されません。
環境科学のこういう傾向には以前から大きな違和感を抱いてきましたが、ここ数年でこの傾向はますます強くなっていると思います。論文のタイトルから本文、さらにその内容のプレスリリースまで、いかにインパクトをアピールするかの勝負になってきています。
例えば本ブログの過去記事において紹介したものでは、日焼け止め成分を用いた毒性試験をしただけの論文のタイトルの最初に「A burning issue(火急の問題)」などと書き、「一般的な日焼け止め成分は淡水生態系にとって危険であることが判明」と題したニュースがEurekAlertに掲載されました(実際には現実的な濃度下では毒性は出ない)。
このような環境科学への違和感の正体は、環境科学は科学と社会運動(世の中は〇〇すべき)がミックスしていることだと感じます。農薬はイヤだ、遺伝子組換え作物はイヤだ、などという「〇〇がない世界に生きたい」という感情との相性が非常によいため、環境科学はそのような主張によく利用され、また環境科学者自身もそのような社会運動に積極的に加担しているように思います。
本記事では環境科学への違和感の正体と題し、この違和感について考えたことを書いていきます。(1)科学と社会運動(〇〇すべき)の混在、(2)「リスクを減らしたい」ではなく「悪いものに罰を与えたい」という感情、(3)「正しさ」の押し付け、という3つの視点から整理してみましょう。
科学と社会運動(〇〇すべき)がごっちゃになっている
今、世の中では「科学的根拠を基に決めました」、「専門家の意見を聞いて決めました」と説明することが多くなっています。コロナ禍での政策決定の場面でもよく目にしました。EBPM(evidence-based policy making)推進の流れもその一環ですし、化学物質や食品安全など科学的なリスク評価を基に規制措置が行われています。
しかしながら逆に、「科学的に決めました」というマジックワードに頼りすぎな弊害が起こってきています。これについては本ブログの過去記事でも説明しました。
上記の記事でも書いたように、意思決定は価値判断を含むため、科学のみから「〇〇すべき」という結論を導くことはできません。そもそも「決めること」は科学の目的ではないのです。コロナ専門家会議でもこの辺の暴走(専門家会議が政策を決めているかのような誤解を与え、「新しい生活様式」などという人々の生活にまで踏み込んでしまったこと)に対する反省が述べられています。
別の例として、最近出たニュースリリースも見てみましょう。「妊娠中の女性が食器、ヘアカラー、プラスチック、殺虫剤に含まれる発がん性物質に曝露されていることが明らかになった」という題であり、妊婦の尿に含まれるさまざまな化学物質を分析した研究結果を紹介しています。研究としてはただ尿を分析しただけであり、リスク評価を行ったわけではありません。にもかかわらず、このリリースには論文の著者が「曝露を制限するために規制措置が明らかに必要です」などと述べていることが書かれています。
これも典型的な科学と社会運動(〇〇すべき)がごっちゃになってしまっている環境科学の例です。「環境をもっとキレイにすべき」とか「人はもっと健康になるべき」というのも価値観の一つであって、ファクトを追究するという科学の本来の目的を踏み越えてしまっています。
環境がどれくらいキレイなら十分か、どれくらい健康なら十分か、という問いは科学をベースに考える必要がありますが、科学だけで答えが出せる問いではありません。ところが、このような問いに対しても「科学的に決めた」と言い過ぎているように思います。価値判断には答えがないけど科学には答えがある、という世間一般のイメージがあるので科学が利用されやすいのでしょうね。
本来は「どのような世界に生きたいのか?」という価値観の話をもっと前面に出すべきでしょう。一般的には科学者ほど科学に対して抑制的(弱点をよく知っている)で、一般の人ほど科学を盾にものを言いがちですが、環境科学では科学者も科学を盾に「〇〇すべき」と声を上げています。
「リスクを減らしたい」ではなく「悪いものに罰を与えたい」という感情
環境科学では「〇〇はこんなに健康に悪い」、「〇〇は生態系にこんな悪影響がある」というストーリーが好まれるわけですが、その背後にあるのは「〇〇のリスクを減らしたい」ではなく、「こんなに悪い〇〇に罰を与えたい」「こんなに悪い〇〇を作ったり使用を推進したりした連中に罰を与えたい」という怒りや報復の感情です。
ただ、このような感情が背後にあるのにあくまで表向きはリスクの話として出てくるところが厄介なのです。しかも、当の本人がそのことに気づいていないことが多いですね。こういう人にいくらリスクの話をしてもあまり無意味だったりするのは、リスクの話をしているようで実はそうではないからです。本ブログの過去記事でもマスクを例にこのことを解説しました。
世の中で叩かれているものはたいていそのような感情に引っかかるものですね。例えばプラスチック製品もそうですが、レジ袋が有料化されてもプラスチックの排出には量的にほとんど貢献しないだろうことは容易に想像がつきます。
ただし、これは比較的いさぎよい例なのです。レジ袋有料化を決めた環境省の中央環境審議会 > 循環型社会部会 > レジ袋有料化検討小委員会の答申においては、レジ袋有料化の目的はプラごみ問題や気候変動問題の解決ではなく「消費者のライフスタイルの変革を促すこと」とハッキリ書かれているのです。マイクロプラスチックのリスクの話など全く出てきません。
ようするに「俺が嫌いだから規制する」というロジックになっているのですが、本来ならば正面切って「正しいライフスタイルとは何か?」のような規範について議論するべきなのです。変にリスクの話に置き換えてややこしくなるよりよっぽどマシです。
「正しさ」の押し付け
「悪いものに罰を与えたい」には怒りや報復の感情がありますが、ときに「悪を退治する自分は正義」という正義感も生まれてきます。そして自分の正しさを認めてもらいたい、みんなに広げたい、さらには自分にとって正しくないものを排除したい、とエスカレートすると「ゆがんだ正義感」に変わってしまいます。
ツイッターなどのsnsではこのゆがんだ正義感による誹謗中傷がよく見られます。誹謗中傷は人に対してもそうですが、農薬などの化学物質、ワクチン等に対しても同様に見られます。これらは上記で紹介したような学術論文を盾にしていることが特徴で、単なる誹謗中傷とは違ってタチが悪い点ですね。
ワクチンなどを叩いても人類に利益があるどころか損なことになるのですが、たとえそれをわかっていたとしてもなおかつ正義を振りかざしたくなるのが人間の心理のようです。みんな忠臣蔵が好きなのはようするにそういうことですね。このことは本ブログの過去記事で説明しました。
正しさの押し付けは、正しくないもの(自分が正しくないと思いこんでるもの)の排除にも向かいます。「〇〇のない世界に生きたい」というやつですね。環境科学にもこのような思想が入っています(科学者が〇〇をなくすべきなどと平気で言ってしまう)。これも突き進むとナチスドイツのような虐殺を生む下地になります。
「ナチス・ドイツの有機農業」という本があり、ナチス政権下のドイツでは有機農法(バイオダイナミック農法)が注目され、囚人の強制労働により有機農業が営まれていたことが書かれています。虐殺した死体も肥料として使われていたなどの記載もありました。当時としては先進的な動物愛護も推進した一方で、ユダヤ人を家畜以下の扱いとしました。自然との調和・共生という「正しさ」のためなら虐殺してもOKというのはいわゆる「免罪符効果(モラルライセンシング)」にあたります。
まとめ:環境科学への違和感の正体
環境科学への違和感の正体について、(1)科学と社会運動(〇〇すべき)の混在、(2)「リスクを減らしたい」ではなく「悪いものに罰を与えたい」という感情、(3)「正しさ」の押し付け、という3つの視点から整理しました。
環境科学はファクトを積み上げる部分と社会運動の部分は分けたほうがよいと思います。公害の時代には科学と社会運動の融合は効果があったかもしれませんが、リスクの時代になると弊害のほうが大きくなっています。
ただし、環境科学において「ファクトだけに注目すべき」とか「社会運動は全く必要ない」とは思いません。どこまでがファクトでどこからが社会運動なのかを明確にすべきというだけです。
そして、社会運動の部分では断片的なファクトから社会問題に応用する能力が重要となり、これは科学者としての能力とは全く別ものであることに注意が必要です。科学者として一流の業績を持つ人でも、いざ社会に物申そうとするととたんにトンチンカンなことを言い出すのはそういう理由です。これは本ブログの過去記事にまとめてあります。
補足
9月に以下の企画展をふらっと見に行きました。特にこの企画展が見たくて行ったわけでもなく、なんでもよかったのです。企画展の名前すら見終わった後で知ったくらいです。現代アートは正直あまり興味がなく、まして社会派アートにはある意味嫌悪感すら抱いていまいした。社会派アートによく見られる(と私が勝手にイメージしている)「正しさ」の押し付けがなく、むしろ「正しさ」が持つ暴力性がテーマの一つとなっている感じがよかったです。
東京都現代美術館 企画展:MOTアニュアル2022 私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ
2022年7月16日(土)- 10月16日(日)
パンデミックや理不尽な攻撃が横行する不条理な事態が続く中、善悪の行方があやふやになりつつあります。異なる背景を持つ者同士の差異に目を向け、そこから生まれる誤解や矛盾を自分ごととして捉えるにはどうしたらいいのでしょうか。わかり合えない他者を受け止め、許すことはできるのでしょうか。言葉は、文化を共有するための手段であると同時に、その差異が対立の要因となることがあります。言葉による記述の外で、忘れられる存在もあります。本展では、語ることや記述の困難さに向き合い、別の語りを模索するアーティストたちの試みを取り上げます。
内容的には以下のような展示がありました(果たしてこれが「アート」なのかどうかはよくわかりませんでしたが):
・多数の障害者を殺害したやまゆり園の事件の犯人は「正しいこと」をやったと思っている
・女性の権利を叫んだフェミニストが優生思想(「正しくない」生命を排除する)の主導者だったりする
・アメリカでのリテラシーテストは有権者のレベルの向上に役立つはずが、黒人を選挙から排除するために使われた。
誰かの正しいは誰かの悲しみあるいは憎しみ、ツイッター上の論争などはほとんどそんな感じですね。環境やリスクをめぐる議論も同じで、正しさの押し付けあいやわかり合えない他者への攻撃ばかりが目立ちます。今回の記事のテーマとともに考えることが多い企画展でした。
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