要約
水道水から農薬が検出された場合に、欧州における水道水中農薬基準0.1μg/Lと比較されることがありますが、この基準は健康リスクと無関係です。実際には健康影響の目安となる別の基準が設定されており、そちらのほうと比較するべきでしょう。これらの基準値のからくりについて解説します。
本文:欧州における水道水中農薬基準
今回は欧州における水道水中農薬濃度の基準値の根拠を明らかにします。まずは以下のニュース記事を見てみましょう。
朝日新聞デジタル:県中部の水道水から高濃度の農薬検出 昨年8月 東大院教授が分析
ネオニコチノイド系のジノテフランという殺虫剤が1リットル当たり868ナノグラム検出され、EU(欧州連合)の飲料水の規制値の8倍を超えていた。
山室教授によると、EUでは水道水中の農薬について、個々の農薬の濃度は1リットル中100ナノグラムを超えてはならず、全農薬の合計濃度も500ナノグラムを超えてはいけない。一方、日本では水道水中の農薬について規制値は定められておらず、浄水場で検査する義務はない。一部の農薬は「水質管理目標設定項目」として基準値が設けられているが、ジノテフランは0・6ミリグラムと「EUなどと比べ非常に緩い」(山室教授)という。
この朝日の記事はミリグラム(mg)やナノグラム(ng)など単位が統一されていないためややこしく、本記事ではすべてマイクログラム(μg)に統一します。0.001mg/L = 1μg/L = 1000ng/Lです。
すなわち、欧州では水道水中ジノテフランの基準値が0.1μg/Lであるのに対し、日本では600μg/Lと緩いのだ、ということが書かれています。なお、日本の600μg/Lは正確にいうと水道水質基準ではありません。詳細は記事最後の補足に書きました。
もう一つ別の記事も見てみましょう。
朝日新聞デジタル:秋田市、水道水の水質検査の項目にネオニコ系農薬を加える方向で検討
こうした背景から、12月7日の市議会一般質問で検査の必要性がただされた。市によると、国が定める目標値は60万ナノグラムで、3千ナノグラムは200分の1程度。上下水道事業管理者は「自信を持って安全安心だと思っている」と答弁し、健康上の問題はないと強調した。
ただ、市は若者の移住や定住促進、子育て環境づくりに力を入れており、水道水で市の印象が悪くなることを懸念。安全を担保する意味で、ネオニコ系農薬の検査に取り組む方針を明らかにした。
これまでの測定値でも日本の基準600μg/Lを大きく下回っており、今後水質検査を強化しても同じようなデータがたくさん出てくるだけだと思われますが、これでどうやって安全を担保するのでしょうか?
必要なのは検査の強化よりも、欧州と日本の基準値の違いは健康リスク上何を意味するのか?をきちんと説明することだと思います。
本記事では、欧州の水道水中農薬濃度の基準値の根拠についてまとめました。まず、個別農薬の基準0.1μg/L(農薬の種類に関係ない)の由来を整理し、次に、この基準値が実際にどのように運用されているのかをフランスの事例をもとに紹介します。最後に、ネオニコチノイド系殺虫剤7種類について、健康影響の目安としてADIから換算した基準値を整理します。
欧州の水道水中農薬の基準値0.1μg/Lの由来
欧州における水道水中農薬の基準を定めている法律がDrinking Water Directive(水道水指令)です。略してDWDです。1980年にできた法律ですが、最新の改正は2020年で施行が2021年からなのでDWD2021と呼ばれています。
European Drinking Water: DWD 2021
水道水中の各農薬はそれぞれ0.1μg/L以下、さらに全農薬の濃度の合計が0.5μg/L以下となっています。ただし、アルドリン・ディルドリン・ヘプタクロル(とその代謝物)などの一部農薬は0.03μg/Lです。基準値の一覧は以下のサイトに紹介されています。
日本バルブ工業会:EU飲料水水質基準を改正する指令が発効
実のところ、農薬の基準値0.1μg/Lは1980年に最初にDWDができたときから変わっていません。40年以上そのままなのですね。ではどのような経緯で0.1μg/Lが決まったのか、以下の論文から読み解いていきましょう。
Doran et al (2013) Is the EU Drinking Water Directive Standard for Pesticides in Drinking Water Consistent with the Precautionary Principle? Environ Sci Technol, 47, 4999-5006
基本的に水道水中に農薬が存在すべきではないという目標として事実上のゼロを求めたのです。ただし、1980年に基準値が設定された当時の分析技術では定量限界が0.1μg/L程度であったことから、0.1μg/L以下であれば事実上ゼロとみなされました。これが0.1μg/Lの由来となっています。
すなわち、この基準値は分析可能な下限値として決まった数字であり、健康リスクと無関係なものです。分析法ベースで基準値が決まっているというのも結構あるあるで、例えばアスベストの基準もそのような根拠で決まっています。
1998年や2020年の改正を経てもなおこの基準値0.1μg/Lは維持されたままとなりました。なお、総農薬の基準値0.5μg/Lは1980年よりも前からあったようですが、その数字の由来はよくわかりませんでいた。
確かに1980年の時点では、まだ農薬の毒性についての知見も少なかったため、事実上のゼロを求めることにも合理性があったと言えます。ところが2020年の改正時点では農薬のリスク評価が進み、ほとんどの農薬についてADI(許容一日摂取量)が設定されているため、リスクベースで基準値を導出したほうが合理的と言えます。WHOでもADIから換算してガイドライン値を決めています。
フランスにおける二つの基準値
欧州の水道水中農薬基準0.1μg/Lは、水道水に農薬を混入してはいけないという目標を掲げたものであり、リスクベースで決めたものではありませんでした。そして、実際にはこの基準を結構超えているようです。
以下のニュースを見ると、フランス大都市圏の人口の約20%が基準を超えた水道水を供給されたことがあるようです。この原因としては農薬の影響が大きいようです。
Le Monde: Drinking water failed to meet standards for 20% of the French population in 2021
ただし、農薬の場合は健康リスクと関係ない基準値であるため、基準値を超えたからといってただちに水道水が断水したりするわけではないようです。このことは以下のフランス食品環境労働衛生安全庁(ANSES)に書かれています。
フランス食品環境労働衛生安全庁(ANSES):水道水中の農薬
https://www.anses.fr/en/content/pesticides-tap-water
水道水中の農薬の品質限界はどのくらいですか?
この規制値は品質の指標です。この値を超えると、蛇口に供給される水の品質が悪化したことを意味します。一方、農薬の水質制限は物質の毒性に基づいていないため、消費者の健康に対するリスク閾値と見なされるべきではありません。(中略)
最大健康値またはVmaxとは何ですか?
(Google翻訳による)
水質制限を超えると、この制限は健康リスクを示すものではありませんが、消費者へのリスクを防ぐことが最優先となります。この目的を達成するために、DGS(フランス保健総局)の要請に応じてANSES は例外的な最大健康値 (Vmax) を確立し、品質制限を超えた場合でも消費者の健康を保証します。
つまり、欧州の水道水中農薬基準0.1μg/Lは健康リスクと無関係であるため、健康影響の目安としての基準値(Vmax)を別途設定し、0.1μg/Lを超えていてもVmaxを超えていなければ安全である、という運用をしているのです。
Vmaxの値のリストの上記ページに掲載されていますが、ネオニコチノイド系殺虫剤では唯一イミダクロプリドが設定されており(ジノテフランは欧州で使用されていない)、そのVmaxは180μg/Lでした。これは欧州基準値0.1μg/Lのなんと1800倍です!
「日本は欧州に比べて基準が緩い」と主張する人はこのような二つの基準値(理想と現実)の仕組みを知らずに0.1μg/Lのほうだけを見ているものと思われます。
ちなみに日本では水道水質基準を超えると水道水の断水が発生します。例えば2012年にホルムアルデヒドの濃度が基準値を超過し(基準0.08mg/Lに対して最高検出濃度0.168mg/L)、千葉県内で36万世帯が断水しました。
もし真夏に断水が発生すると熱中症のリスクが高くなってしまい、基準値を超過した水道水を飲むリスクよりも熱中症のリスクが高くなる可能性もありました。このことは本ブログの過去記事に詳しく書いてあります。
ネオニコチノイド系殺虫剤の健康影響の目安となる基準値
最後にネオニコチノイド系殺虫剤7種類について、健康影響の目安としてADIから換算した基準値を見てみましょう。日本ではネオニコチノイド系殺虫剤の水道水中基準値は設定されていませんので、代わりに農薬取締法による「水質汚濁に係る農薬登録基準」のほうを参照します。
この基準値はADIをベースに以下の式で計算されます:
基準値(mg/L) = ADI(mg/kg体重/日)×55.1(kg体重)×0.1/2(kg/日)
55.1kgの人が1日に2Lの水を飲み、農薬摂取量のうち10%を水由来(残りは食品由来や大気由来)と考えた場合を仮定して計算します。この計算方法は本ブログの過去記事でも解説しています。
殺虫剤名 | ADI(mg/kg体重/日) | 基準値(μg/L) |
アセタミプリド | 0.071 | 180 |
イミダクロプリド | 0.057 | 150 |
クロチアニジン | 0.097 | 250 |
ジノテフラン | 0.22 | 580 |
チアクロプリド | 0.012 | 31 |
チアメトキサム | 0.018 | 47 |
ニテンピラム | 0.53 | 1400 |
イミダクロプリドの基準値は150μg/Lであり、フランスのVmaxの180μg/Lとほぼ同様の値となっています。特に日本のほうが基準が緩いということはありません。
フランスのVmaxの計算方法は以下の資料のp12に書いてあります。以下の式(VTRはADIと同様の意味です)のように計算しますが、日本の場合は標準体重と標準飲水量が決まっているのに対し、フランスでは体重1kgあたり0.045Lの水を飲むという計算になっているところです。体重55.1kgであればフランスの場合2.48L/日の水を飲むことになります。
Vmax(mg/L) = VTR(mg/kg体重/日)×0.1/体重あたりの1日水消費量比0.045(L/kg体重/日)
フランス食品環境労働衛生安全庁(ANSES):de l’Agence nationale de securite sanitaire de l’alimentation, de l’environnement et du travail
https://www.anses.fr/fr/system/files/EAUX2018SA0134.pdf
VTRのリストは以下の資料にあり、イミダクロプリドのVTRは0.06mg/kg体重/日(日本は0.057mg/kg体重/日でほぼ同じ)で、このときVmaxは133μg/Lと計算されます。実際のVmax180μg/Lとは若干合いませんが理由は追いきれませんでした。
フランスANSES:毒性基準値 (TRV)
このようにフランスでも実際の運用では0.1μg/Lの基準値よりもADIから換算されたVmaxが使われ、その数字は日本と同程度の値です。
また、ADIから計算されたジノテフランの基準値は580μg/Lであり、冒頭のニュースで検出された0.868μg/Lは健康影響を懸念するレベルではないことがわかります。
まとめ:欧州における水道水中農薬基準
欧州の水道水中農薬の基準値0.1μg/Lの由来は、水道水中に農薬が混ざるべきではないという理想を掲げたもので、1980年当時の分析技術の限界から設定されたものです。これは健康影響とはまったく関係ない基準であるため、実際の運用においては健康影響の目安となる別の基準値を設定してそちらに基づいた判断が行われます。よって0.1μg/Lを超えたことをもってキケンをあおることは避けるべきでしょう。
補足
ここでは日本の水道水質基準における農薬の扱いについて書いておきます。まず水質基準51項目の中に農薬は入っておらず、水質基準よりも1ランク下の扱いである水質管理目標設定項目の中に総農薬に関する項目があります。
総農薬は、115種類の農薬について「濃度/ガイドライン値」を計算し、その合計が1以下であることが目標となっています。農薬のガイドライン値は上記の「水質汚濁に係る農薬登録基準」と同様にADIから換算するものです(数字の丸め方などが若干違う)。
厚生労働省:農薬の考え方について
厚生労働省:農薬類(水質管理目標設定項目の対象農薬リスト)
この115種類の農薬のリストにはジノテフランなどのネオニコチノイド系殺虫剤はありません。これは、検出状況とガイドライン値との比較から、総農薬の合計値に対する貢献度が低いため必要ないと判断されているわけです。
例えば以下のページの「資料2 水質基準等の見直しについて(案)」を見ると、ジノテフランはADIから計算された評価値(基準値のもととなる数値)は600μg/Lですが、これは総農薬のリストには入りませんでした。
厚生労働省:第19回厚生科学審議会生活環境水道部会資料
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