要約
AIなどの新しいリスクが注目される中、リスク学では倫理の重要性が増しています。これまでに本ブログで倫理的なことを扱った記事を掘り起こし、以下の3つのトピック:(5)規制か自由か、(6)ELSI、(7)倫理と道徳、について再整理します。
本文:リスクと倫理その2
リスクと倫理についての記事第2回となります。これまで本ブログの過去記事で倫理的なことを扱ったものを掘り起こして、倫理の視点から再整理しています。扱うトピックは以下の7つになります:
1.よいリスクと悪いリスク
2.功利主義
3.リスク評価と価値判断
4.予防原則
5.規制か自由か
6.ELSI
7.道徳と正義
第1回ではこのうち1~4までをまとめました。
第2回の本記事ではこの続きとなる5~7までをまとめます。
規制か自由か
健康のためにたばこや酒をやめろ、食塩を減らせ、野菜・果物を食べろ、やせろ、運動しろ、などのメッセージは身の回りにあふれかえっています。これらの行動でがんなどの生活習慣病を予防してより健康になることは高いエビデンスがあります。ただし、生活習慣や何を食べるかは個人の自由でもあり、どこまでそれを制限してよいかの線引きは難しいものがあります。
リスク管理としての規制は非常に強力な効果を持っています。しかしながら規制は自由を奪うものであるため、やみくもになんでも規制すべきではなく慎重さが求められます。どの程度規制によってリスクを減らし、その分自由を奪ってよいかというバランスは倫理的な問題を含んでいます。
特にコロナ禍では外出自粛のお願いが出されたり、自由を制限する対策が多くとられました。新型コロナの発生初期段階では、体調が悪い時にいきなり病院に駆け込まずに「風邪の症状や37.5度以上の発熱が4日以上続く」場合に相談・受信する、というやり方が示されました。この基準の誕生と消失のプロセスを調べた記事を書きました。
このルールは病院に不安な患者が殺到してパンクするのを防ぐためですが、コロナかどうか不安なのに受診・検査したくてもできないという制限がかかります。ちなみにこのルールは後に解釈を変えて、4日我慢しろという意味から4日経ったら必ず受信せよという意味になったのでした。「最初から個人の自由なんて制限してませんでしたよ」という見解が後から出てきた形です。
一方で、無症状の人でもPCR検査を全員に受けさせて、陽性の人をじゃんじゃん隔離すればよいのだ、という主張もよく見られました。このような無症状の人に対する検査の拡大についての価値観の対立に関する記事を書きました。
この主張に関しては、
・「陽性≠人にうつす」なのに安易な隔離が行われている
・子供に関しては特に差別の影響が大きい
・妊婦全員検査による安易な帝王切開の横行、検査の量・スピードが優先されて質の担保が伴っていない
・陰性証明を受けた人が安心してしまいそこから感染が拡大している
などいろいろな問題点が指摘されており、無症状の人に対する検査の拡大には否定的な見解が出されました。
しかしながら、以下のように人生がかかっている場合に無症状でも自由に検査を受けられないと困る場合もあります:
・海外渡航前にPCRの陰性証明が必要な国が多い
・大事なイベントなどの実施
・職場から求められる
専門家から見て弊害のある検査であったとしても、検査を受ける側からするとシロクロはっきりさせて安心したいという願望があります。このような価値観の対立も倫理的な問題となるでしょう。
また、規制と自由のよいとこどりを目指したナッジ(そっとひじでつつく、の意味)について解説した記事を書きました。規制などの強制ではなくゆるく行動を導く仕組みのことです。
例えばコロナ禍ではレジ前に1mおきに並ぶ足跡マークをよく見かけるようになりました。そうすると特に強制されたわけでもないのにみんなが自然に足跡のところに並び、結果的に感染対策としてのソーシャルディスタンスが保たれるわけです。
私的な自由を尊重する立場がリバタリアンです。例えばコロナに関して感染防止対策をしていないような店舗は、皆が行かなくなるのでそのうち破綻してしまうから、規制で縛る必要はなく自由経済に任せれば勝手に最適化される、という考え方です。逆に、人は放っておくと何をするかわからないから規制によって人々を正しい方向へ向かわせなければいけない、という立場がパターナリズムです。感染防止対策をしていない店舗は国が強制的に休業させろ、という考え方です。
この二つの考え方の論争から生まれてきたのがリバタリアン・パターナリズムであり、この実践に「ナッジ」というキャッチーなネーミングをしたことで社会に広がりました。
ELSI
ELSIとは、倫理的・法的・社会的課題(Ethical, Legal and Social Issues)のことで、リスクの社会科学的な側面になります。新たな技術の普及にはそれに伴う安全性以外にもELSIについて考慮することが必要になります。このELSIについて書いた記事になります。
特に新しい技術に関しては法規制がなかなか追いつかないことが多いのですが、規制がないから何をやってもよいわけではなく、倫理規範に背いたことを行えば容易に炎上して技術の普及にブレーキがかかります。
「コンプライアンス」を単なる「法令遵守」ではなくもっと広くとらえて、法規制が追いついていないことであっても、世の中はこの新規技術に対して何を望んでいるか、どんなことが起こった場合に社会は許容できないのか、世の中の倫理規範に反していないか、などを自分たちで考える必要があります。
日本企業は短期的な世論は気にするけど、そもそも倫理規範に背いてないかどうかということに無頓着な傾向にあり、これはEとSの区別がないということになります。
また、社会の価値観の変化が非常に早く、人権や多様性、セクハラ・パワハラなども数年前とは状況が大きく変わっています。
企業においても人権対応が必須になってきています。人権侵害が原因となる不祥事の影響が以前よりも大きくなってきたからです。つまり、人権にかかわる「世の中の受け入れられないリスクの大きさ」が急激に下がってきた、とみなせるでしょう。このような状況における「人権リスク」への対応の必要性について記事を書きました。
東京オリンピックのような大規模イベントでも人権リスクが発生します。女性差別発言やいじめ自慢、ナチスの揶揄などで世論が炎上してから場当たり的に対応し、結局皆退場となりました。そして日本は国際的な人権感覚が弱いところを見せてしまったのです。
さらに、AIなどの新しいテクノロジーがプライバシー侵害や差別等の新たな問題を生み出すという人権リスクも懸念されています。
企業活動において人権リスクを評価し、適切に管理するプロセスは「人権デューディリジェンス」と呼ばれています。これについて解説した記事も書いています。
人権デューディリジェンスは
・人権リスクの評価
・リスク管理措置の実施
・追跡調査
・情報開示
の4つを繰り返し回していくプロセスになります。
さらに人権リスクは、
1.人権への負の影響の重大性
2.負の影響の範囲
3.被害者の救済困難度
という3つの軸から評価されます。
道徳と正義
最後は道徳や正義の話です。倫理は社会の中での行動規範のこと、道徳は個人の行動規範のこと、という違いはありますが、あまり明確な区分なく使われていたりします。また、正義は罪を犯した人を罰すなど「社会の秩序を保つためにバランスをとること」ですが、これも「正義感」などの個人の価値観的な意味で使われることも多いですね。
倫理学では動機の善し悪しを重視する徳倫理、行為の正しさを重視する義務論、帰結(結果)の善し悪しを重視する帰結主義などの倫理理論があります。動機や結果が善ければ不正な行為をしても構わないのか?、などの倫理観の間での衝突があったりもします。
免罪符効果とは、よいことした分だけ悪いことをしたくなる心理的効果のことで、何か対策をするとその分だけ他の対策をさぼってしまったり、自分が対策をやった分だけ対策をしていない人に対して攻撃的になっても許される、などの心理のことです。この免罪符効果について解説する記事を書きました。
例えばコロナ対策では、自分は政府に言われるとおりにstayhomeを守っているのだから、gotoする奴を批判し、感染した奴に対して差別・偏見をしてもよいのだ、と感じる人がいたりします。
また、有機食品を食べる人は自分自身を道徳的に優れた人間だと考えて、その分ボランティアをする時間が減ったり、他の人を断罪しやすくなるなどの研究もあります。
このように、道徳的に善い行動をとる人ほど自身の非道徳的な行動も正当化しやすくなります。「道徳的に善い行為が不正行為を正当化する」のですが、「動機は善い」という点と、そこから生まれる「行為は不正」という点を分けて考える必要があります。
また、教育に非科学的な主張が入り込む根底にある「善きもの論」について解説した記事も書いています。
例えば、「発達障害の子供が増えているのは農薬が原因。給食を有機農産物に変えれば解決する!」という主張が目立つようになりましたが、「給食に有機農産物を導入しよう」という動機は「善いこと」なので、善いことをするのだから少しくらい農薬のリスクを誇張したっていいじゃないか、となるわけですね。
他にも、EM菌は科学的にはその効果は認められていませんが、沖縄で農業資材としての利用から始まり、次第に万能な環境浄化資材として利用が広がっていきます。これも社会をよくしようとする「善意」に突き動かされて非科学的なものが侵入する例と言えるでしょう。
これらの例も、「動機は善い」が、科学的に怪しいものを教える「行為は不正」、ということになります。
さらに、デマをバラまく側もそのデマに対峙する側もお互いに正義感を持って戦っているという話も記事に書きました。反ワクチンの陰謀論から抜け出した方のエピソードが興味深いです。
「正義感」の厄介なところとして、「正義のためだから相手に攻撃的になってもOK」という方向に向かってしまうことがあります。
どちらも動機は善いが、相手に攻撃的になる行為は不正という同様のパターンになりますね。ただし帰結を考えると、デマを流すのは悪い結果を生み、デマを修正するのは善い結果を生むという違いがあります。
どのパターンも「世の中のため」という善い動機から出発しているのですが、行為が不正であったり、悪い結果を生んだりすることがあります。倫理面を考える際もどの観点から考えるかが重要になります。
まとめ:リスクと倫理その2
リスクと倫理その2として、リスクと倫理についてこれまでに本ブログで扱った内容から、(5)規制か自由か、(6)ELSI、(7)倫理と道徳について再整理しました。具体例を沢山出すことで、実務者にとっても頭に入りやすいように整理しています。
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