要約
原発処理水の海洋放出により、中国は日本の水産物を禁輸としました。今後の対応の参考として、WTOとSPS協定について解説し、2019年に日本が韓国に敗訴した理由についておさらいます。特に争点の一つとなったALARAの原則についてどう向き合えばよいかに注目して解説します。
本文:韓国による福島の水産物禁輸措置に対するWTO訴訟でなぜ日本は負けたのか?
前回の記事に引き続き、原発処理水放出の影響について書いてみます。今回は中国による日本の水産物の全面禁輸措置にどう対応するか?をトピックとします。
これまで、原発処理水中の基準値トリチウム1500Bq/Lの根拠について解説したり、放出先の海水中基準について解説してきました。また、排水中基準と環境中基準の関係について、原発処理水と工場などの事業所排水の考え方の違いにも注目しました。
さて、中国による禁輸措置について、WTO提訴の検討を求める声が一部の議員から上がっているようです。
FNNプライムオンライン:自民外交部会“WTO提訴”も 処理水めぐる中国の措置に
しかし、2019年には同様の事例で、韓国による日本の一部水産物の禁輸措置に対してWTOに提訴したところ、敗訴してしまった苦い経験があります。
原発事故による汚染水問題を理由に、韓国政府が福島など8つの県の水産物の輸入を禁止していることについて、WTO=世界貿易機関の上級委員会は、韓国側に是正を求めた第1審にあたる小委員会の判断を取り消すとした報告書を公表しました。日本の主張が退けられ、事実上、敗訴した形となります。
NHK: 韓国 8県水産物輸入禁止日本が逆転敗訴 WTO
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/statement/16582.html
こうした経緯もあり、政府はWTOへの提訴については慎重なようです。そもそも現在WTOの紛争解決手続きは機能不全に陥っているようです。この辺を踏まえて本記事では、まずWTOとSPS協定について解説し、2019年の日本が韓国に敗訴した理由についておさらいしてみます。最後に、争点の一つとなったALARAの原則についてどのように向き合えばよいかを考えてみましょう。
WTOとSPS協定
まずはWTOとは?から始めましょう。農水省の以下のページにいろいろ解説があります。
農林水産省:WTO/SPS協定
WTO(World Trade Organization:世界貿易機関)は1995年に設立され、自由貿易のための国際ルールを定め、貿易摩擦を減らすための交渉を行い、問題解決のための訴訟システムを持っています。加盟国は164ヵ国、職員数は640名とされており、本部はスイスのジュネーブにあります。
次にSPS協定とは?に進みます。SPS(Sanitary and PhytoSanitary)協定とは、人の健康、動物衛生、植物保護に関する検疫措置において、貿易に与える影響をなるべく小さくするための国際ルールのことです。
検疫措置の中には輸入禁止などの措置も含まれます。危険なものは輸入禁止という措置は国民の健康保護を目的としたものではありますが、これを盾に都合よく輸入禁止措置をされると自由貿易が成り立たないため、あらかじめルールを決めておこうというものです。
食品、動植物の輸出入に関する2国間、多国間で合意される輸入条件は、
https://www.maff.go.jp/j/syouan/kijun/wto-sps/pdf/gaiyou.pdf
① 国際基準に整合すること
② 科学的根拠に基づいたリスク評価を実施した上で、適切な保護の水準を決定していること
が求められる。
上記のようなルールにより、健康保護を目的とした場合であってもむやみやたらに輸入禁止などの措置ができないように歯止めがかけられているわけです。その措置がSPS協定に反する場合には、WTO紛争処理機関への提訴を経て、措置が是正されることになります。
科学的に説明可能であって、必要以上に厳しすぎないことが求められます。ただし、情報が不十分な場合に予防原則的な規制措置は暫定的に認められます。その場合は、情報を追加で収集してその結果をもとに再検討することも求められます。
WTOの紛争解決制度は2審制となっており、パネル(小委員会、第1審)における報告に不服がある場合には、第2審となる上級委員会に上訴できます。その上級委員会の決定は最終決定となり、覆ることはありません。
上級委員会は7人構成の常設機関ですが、日本が敗訴したときには4名が空席で、審理可能な最低人数である3人しか任命されていない状況でした。その後さらに減って機能停止に陥りました。アメリカがWTOの対応に不満を示し、メンバーの補充を拒否しているそうです。このように、貿易紛争を積極的に是正するという機能はうまく働いていないようです。
NHK: WTO機能停止で 日本も52の国など参加の暫定的解決の枠組みに
WTO訴訟でなぜ日本は負けたのか?
韓国は福島県産など一部の水産物の輸入を禁止しましたが、日本側はそれを必要以上に厳しすぎる措置でSPS協定に違反する、という主張でWTOに提訴しました。1審のパネルでは日本側の主張が認められましたが、2審の上級委ではパネルの判断が却下されました。その最終報告は以下のWEBサイトからアクセスできます。
この報告書は大変に難解なものです。SPS協定の2.3条、5.6条、5.7条について争われましたが、ここではそのうちの5.6条(条文は記事最後の補足に掲載)について解説します。韓国側が日本に求めた安全レベルとして、
1)通常の環境レベルである
2)合理的に達成できる限り低い(As Low As Reasonably Achievable, ALARA)
3)年1mSv以下の曝露量
の3点がありました。パネルでは日本側は3(年間1mSv)が達成できていることを主張して認められました。そして、1と2(通常の環境レベルとALARA)は定量的な判断が難しいため、3をもって1と2も達成できていると判断されました。
このように日本の水産物は3つの安全レベルを満たしているので、韓国の措置は必要以上に厳しすぎてSPS協定に違反するとパネルは判断しました。
ところが、上級委では3をもって1と2を満たすとは言えないと判断され、パネルの判断を却下しました。上級委が1と2を満たさないと判断したわけではなく、単にパネルの判断はおかしいと判断しただけです。ただし、パネルへの差し戻し制度がないためにここで訴訟は終わってしまったのです。
上級委の3人の委員のうち2人の任期が切れる前であったので、早く終わらせたかったという説もあります。より詳細に解説している記事は記事最後の補足にリンクを掲載しておきます。
何をもってALARAか?安全のロジックが重要
私が注目したのは上記2のALARAの原則の部分です。日本側は年間1mSv以下の曝露量をもってALARAの原則が達成できていると主張しました。年間1mSvは事実上安全であるということはおおむね言えますが、それだけではALARAが達成できていると法律家を納得させるのは難しいと思います。
何をもってALARAなのか?(何をもって「合理的」なのか?)を説明できる正当なロジックを日本は持っていなかったと思われます。それはALARAを「できるだけ低く」という単なるスローガンとして使ってきたからではないでしょうか。
多分それは韓国側も同じで、ALARAを根拠に「できるだけ低く」と言えば日本は困るのではないか?とよく考えずに出してきたのかもしれません。
放射性物質は閾値なしの発がん性物質ですので、これ以下の曝露量ならゼロリスクです、というロジックを立てることはできません。このような発がん性物質をどう管理するか、というロジックはこれまでいくつも蓄積されています。
ただし日本では、放射性物質の許容量を決める際に食品安全委員会に諮問を出したのですが、「おおよそ生涯100mSv以下では有意な影響は検出できない(許容量はわからない)」という答申を返し、許容量を決めることを断念してしまいました。
外部被ばくについては、居住する地域によって自然由来の放射線の量は地域により年1mSv程度の変動があり、それでも引っ越す際に放射線の量を気にして居住地を決める人はいないため、年1mSv程度の被ばくによるリスクは人々に受け入れられていると判断しています。これも面白いロジックです。
また、1973年にFDA(米国食品医薬品局)は、直線閾値なしモデルを用いて求めた100万人に1人という発がんリスクを実質安全量(virtually safe dose, VSD)として採用しました。ただし、これを放射性物質に適用すると年1mSvよりもだいぶ低くなってしまいます。
ALARAの「合理的に達成可能」について、年1mSvよりも下げた場合にどのくらい発がんリスクが下がり、追加のコストはどれくらいか、を計算すると費用対効果が求まります。それを確率的生命価値と比較して合理的かどうか(コスパが良いか)を判断するなどのロジックがあります(費用便益分析)。
費用便益分析の話は本ブログの船舶安全の記事で紹介しました。また、福井県立大学(当時)の岡敏弘教授が実際に食品中放射性物質の費用便益分析を行って、ALARAの原則で基準値を決める事例を紹介しています(リンクは記事最後の補足に掲載)。
日本の場合、誰かがルールを決めてくれればそれをクリアしてみせるのは得意ですが、今回のケースのようにロジックを自分たちで組み立ててそれを第3者に認めさせるというところが弱いと感じます。
まとめ:韓国による福島の水産物禁輸措置に対するWTO訴訟でなぜ日本は負けたのか?
韓国による日本の水産物輸入禁止措置について、日本はWTOに提訴した結果敗訴しました。年1mSvの曝露量を達成していることでALARAの原則(合理的に達成可能な限り低い)も達成できているという日本の主張は認められませんでした。安全は分析値による定量的な判断に加えてロジックの立て方が重要ですが、日本はこの点が弱いことが浮き彫りとなりました。
補足
SPS協定の条文訳
5.6条
第三条 2 の規定が適用される場合を除くほか、加盟国は、衛生植物検疫上の適切な保護の水準を達成するため衛生植物検疫措置を定め又は維持する場合には、技術的及び経済的実行可能性を考慮し、当該衛生植物検疫措置が当該衛生植物検疫上の適切な保護の水準を達成するために必要である以上に貿易制限的でないことを確保する。
https://www.maff.go.jp/j/syouan/kijun/wto-sps/attach/pdf/index-16.pdf
詳細な解説
濱田太郎 (2019) 韓国による日本産水産物等の輸入制限に関する紛争について
川瀬剛志 (2019) 韓国・放射性核種輸入制限事件再訪-WTO上級委員会報告を受けて-
岡敏弘 (2015) 放射能汚染食品のリスク評価と規制・対策の費用便益分析
http://www.econ.kyoto-u.ac.jp/~oka/furesymposium_oka.pdf
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