要約
残留農薬基準の決め方の説明として巷にあふれている「ADI(許容一日摂取量)を超えないように決められています」は正しくありません。「ADIを超えないように」決める基準値(ADI換算型)というのはどういうものかを説明し、残留農薬基準の決め方(ALARA型)はそれとは違うことを解説します。
本文:残留農薬基準値の決め方
化学物質のリスクの中でも残留農薬は注目されやすい種類のものです。残留農薬基準の決め方の説明として巷にあふれるようによく目にするのは
「ADI(許容一日摂取量)を超えないように決められています」
というものです。
ところがこのような説明は間違いであり、まるでADIから換算して決めているかのように誤解を与えてしまうものです。以下にいくつか例を挙げてみます。
徳島県:農薬の残留基準値について
農薬残留基準値の設定方法は?
農薬の残留基準値は、各種の毒性試験に基づき設定された「人が一生涯摂取し続けても健康に影響のない許容量(ADI:一日摂取許容量と言います)」を超えないように、各作物ごとに残留が許される量として設定されています。
環境省:化学物質と環境円卓会議(第21回)
資料2「農薬等の残留基準の設定とポジティブリスト制度による食品安全管理」
食品の安全確保のための残留農薬規制の仕組み
○基本的な考え方
毎日の食事を通じて摂取する農薬等の量がADIを越えないようにする。
AGRI FACT: ラウンドアップの農畜水産物への残留基準を緩和した理由は何ですか?
残留基準値は、毎日の食生活でこれらの食品を食べても一日摂取許容量を超えないように、食品ごとの値を決めたもので、安全な食生活を守るための一日摂取許容量の内訳に当たります。
以下の説明は間違いではありませんが、健康影響がないことが強調されており、どうやって決められているかがよくわかりません。なんとなくADIを超えないように決められているのかな?という誤解を招きやすいと思います。
農薬工業会:教えて!農薬Q&A
Q: 残留基準値はどのような考え方に基づいて設定されているのですか。
A: 作物残留試験の結果を用いて、その農薬の様々な食品を通じた長期的な摂取量の総計が許容一日摂取量(ADI)の8割を超えないこと及び個別の食品からの短期的な摂取量が急性参照用量(ARfD)を超えないことを確認した上で、定められた使用方法に従って使用した場合に残留し得る農薬の最大の濃度が残留基準値として設定されます。
残留農薬が基準値を超えた場合の健康影響の考え方は本ブログの過去記事でまとめました。今でも人気のある記事でよく読まれています。ただし、この中では残留農薬基準値の決め方の説明はしませんでした。
本記事では、巷にあふれている残留農薬基準の決め方の説明は誤解を招くものが多いことをふまえて、残留農薬基準の決め方を解説したいと思います。はじめに、ADIから換算する基準値というのはどういうものかを説明し、その次に残留農薬基準の決め方を説明していきます。ただし、本記事中では「ADIとは何か」という説明はしませんので、この部分が知りたい方は他のサイトをあたるようにしてください。
ADI換算型の基準値の決め方
まずここではADI換算型の基準値の決め方を整理します。「水質汚濁に係る環境基準」の中の「人の健康の保護に関する環境基準」は典型的なADI換算型の基準値と言って良いでしょう。農薬に関してもチラウム、シマジン、チオベンカルブの3つについて環境基準が定められています。
環境省:水質汚濁に係る環境基準
食品安全委員会が公表している農薬評価書を見ると(この辺の詳細は冒頭に紹介した本ブログの過去記事をご覧ください)、チオベンカルブのADI=0.009mg/kg体重/日と設定されています。動物実験による無影響量の最小値がラットを用いた2年間慢性毒性/発がん性併合試験の0.9mg/kg体重/日であったので、これを不確実係数100で割ることで得られます。
次に、体重50kgの人が一日に2Lの水を飲み、水からの摂取寄与率が10%(他は大気や食品経由など)とすると、ADIを超えないような水中濃度は、
0.009 (mg/kg/day)×50 (kg)×0.1/2 (L/day) = 0.0225mg/Lと計算され、ここから環境基準は0.02mg/Lと設定されました。この基準値設定プロセスをまとめると以下の図のようになります。
これが「ADIを超えないように決められている」基準値の正しい導出方法です。これから説明する残留農薬基準はこのような決め方とは全く違うのです。
残留農薬基準値の決め方はADI換算型ではなくALARA型
次はいよいよ残留農薬基準の決め方の説明に入ります。ベースとなるのは作物残留試験です。決められた使用方法で使用した場合の食品中に残留している農薬の濃度を調べ、それがどの程度の範囲になるかを整理します。この範囲にある程度のマージンを持たせて基準値案を決めます。つまり以下のようなプロセスになっています。
あれれ!?ADI関係ないじゃん?
そう思われた方、正解です。残留農薬基準はADIから換算するものではありません。残留農薬基準は「決められた方法に従い正しく農薬使用していればこの値を超えることはありません」という意味の数字ですので、これを超えた場合に「農薬を正しく使用していない」ということはわかりますが、「健康影響がどれくらいか」はわからないのです。
これが「ADI換算型」ではなく「ALARA型」と言っている意味について説明します。基準値案は残留濃度の分布よりもある程度高いところに設定しますが、どこまででも高くしてしまうとより高い残留濃度を許してしまうことになってしまいます。よって、「残留濃度の分布よりもある程度高いが、その中でなるべく低く設定する」こととなります。これがALARA(as low as reasonably achievable, 合理的に達成可能な限り低く)の解釈です。
例えば先ほど例に出したチオベンカルブについては、米中の残留基準値は0.2mg/kgとなっていますが、これは作物残留試験成績の結果が<0.03~0.12mg/kgの範囲であったことから決められています。正しく農薬を使用していれば0.12mg/kg以下になるはずですが、多少マージンを上乗せして、しかも切りのいい数字ということで0.2mg/kgとなるわけですね。
厚生労働省:薬事・食品衛生審議会食品衛生分科会農薬・動物用医薬品部会 平成23年2月10日開催 【チオベンカルブ(農薬)】 資料5-1 農薬・動物用医薬品部会報告(案)
残留農薬基準値×摂取量の食品ごと合計値(=理論的最大一日摂取量)はADIを超えていても良い
いやいや、お前は間違えてる!残留農薬基準値から農薬の摂取量を推定して、それがADIを超えないことを確認しているはず。
次にこの疑問へ回答します。結論から言うとADI(の食品への割りあて分)を超えていても良いのです。農薬のことを学ぶのに最もオススメできる資料である「農薬概説」に掲載されている以下の事例(架空の農薬)から健康影響の確認方法について説明します。
食品名 | 平均残留濃度(mg/kg) | 基準値(mg/kg) | 食品平均摂取量(g) | TMDI(mg/人/日) | EDI(mg/人/日) |
大豆 | 1.2 | 3 | 39 | 0.117 | 0.0468 |
かんしょ | 0.46 | 1 | 6.8 | 0.0068 | 0.0031 |
キャベツ | 0.98 | 3 | 24.1 | 0.0723 | 0.0236 |
たまねぎ | 0.82 | 2 | 31.2 | 0.0624 | 0.0256 |
トマト | 1.8 | 5 | 32.1 | 0.161 | 0.0578 |
未成熟いんげん | 1.1 | 3 | 2.4 | 0.0072 | 0.0026 |
えだまめ | 0.24 | 0.7 | 1.7 | 0.0012 | 0.0004 |
いちご | 2.1 | 5 | 5.4 | 0.027 | 0.0113 |
合計 | 0.455 | 0.171 | |||
ADIの食品への割りあて分 | 0.441 | 0.441 |
それぞれの食品に対して農薬を適正に使用した場合の平均残留濃度があり、それを少し上回るように基準値が設定されています。次の列に各食品の平均摂取量があります。これは国民全体の平均ですが、幼小児や妊婦、高齢者の摂取量に基づいた計算も別途行われています。
基準値×食品摂取量で計算されるのが理論的最大一日摂取量(TMDI, Theoretical Maximum Daily Intake)です。この合計値は0.455mg/人/日です。
一方で、この架空の農薬のADIは0.01mg/kg体重/日とすると、平均体重55.1kgをかけて0.551mg/人/日となります。このうち食品に割りあてられるのは80%です(残り10%は水、10%が大気からとなります。環境基準の計算では水からの摂取寄与率が10%として計算しました。)。よって、0.441mg/人/日が割りあてられます。TMDIは0.455mg/人/日ですので、ADI(の食品への割りあて分)を超えてしまいます。
また、平均残留量×食品摂取量で計算されるのが推定一日摂取量(EDI, Estimated Daily Intake)です。この合計値は0.171mg/人/日です。これはADIの食品への割りあて分を超えていません。重要なのは実際の残留量から推定される摂取量ですから、これがADIを超えなければ良いのです。
以上が長期曝露評価ですが、ARfD(ADIの短期版)を用いた短期曝露評価も行われています。同様に農薬の残留濃度×食品摂取量によって推定短期摂取量(Estimated Short-Term Intake)を計算しますが、長期曝露評価とは計算方法が異なります。
農薬の残留濃度は基準値を使いますが、残留試験のデータが4例以上の場合は実際の最大残留濃度を使います。さらに、可食部ユニットの重量が大きい場合(たまたま高い濃度の部分だけ食べてしまう可能性がある場合)や穀物などのように大量にブレンドされている場合は若干計算方法が異なります。
食品摂取量のほうは、短期的にたくさん食べる場合があるため平均の数字ではなく97.5パーセンタイル値を使います。ただし、残留濃度と同様にいくつかのケースによって計算方法が変わります。計算方法の詳細は農薬概説を参照してください。
これで求めたESTIがARfDよりも小さい場合に健康影響の懸念がないと判断されます。
このように、最初に決めた基準値案をもとに長期曝露評価、短期曝露評価が行われた後に、基準値案が正式に基準値として採用されることになります。
つまり、残留農薬基準値は実際の残留濃度より少し高いところに設定され、「ADIを超えないように」設定されているわけではありません。基準値ではなく実際の残留濃度をもとにADIを超えていないかどうかが確認されています。基準値の設定と健康影響評価は別の話なのです。
この健康影響の部分(安全ですよということ)を強調したいがあまり、あたかもADIから換算されているかのような誤解を招く説明が巷にあふれてしまったのではないかと考えられます。
まとめ:残留農薬基準値の決め方
残留農薬基準の決め方の説明として巷にあふれている「ADI(許容一日摂取量)を超えないように決められています」は間違いです。基準値はADIから換算されているわけではなく、「決められた方法に従い正しく農薬使用していればこの値を超えることはないはず」という水準で決められています。
次回の記事ではこの続きとして、ポジティブリスト制で適用される一律基準値(0.01mg/kg)の決め方の根拠について説明したいと思います。
さらに、説明の仕方を注意するよりも運用を変えて健康影響の基準値(ADIから換算)に変えればよいのでは?という意見についてまとめました。
最後に、ADIから換算する方法を一斉に適用したリストを作成しました。
補足
拙著「基準値のからくり」の「第5章 古典的な決め方の基準値」に残留農薬基準の決め方の説明があります。この時はまだ短期曝露評価が導入される前でした。無影響換算型基準値とALARA型基準値の違いも解説しています。
農薬概説は農薬を学ぶのに最も適したテキストです。しかも毎年更新されるので常に最新の情報が手に入ります。
コメント