東京オリンピック2021開催に関する尾身提言のからくり:リスク評価としての出来は不十分

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要約

オリンピック開催に関する尾身提言の内容についてリスク評価の観点から見ていきます。提言の内容自体はまっとうではありますがリスク評価としては不十分と感じます。飲食などの人流の増加の程度に関しては根拠が乏しく、安全目標も不明確で、リスク評価に基づいたリスク管理になっていません。最も気になるのは「解決志向リスク評価」の視点が欠けている点です。

本文:オリンピック開催に関する尾身提言

前回の記事に引き続いて、オリンピック開催をめぐる科学と政治の動きについて書いていきます。前回の記事では科学vs政治の対立構造、科学と政治の間に位置づくレギュラトリーサイエンス、リスク評価の限界やリスクが許容可能かどうかの議論などの論点を整理しました。

コロナウイルスのリスクガバナンスにおける科学と政治その7:オリンピックの開催是非は専門家が判断することなのか?
オリンピックの開催などをめぐって科学vs政治の対立構造があおられていますが、科学と政治の間に位置づくレギュラトリーサイエンスの観点が重要です。専門家がリスク管理に踏み込むのは緊急事態であることを考えれば仕方ありませんが、これが標準的なやり方ではありません。リスク評価の限界やリスクが許容可能かどうかの議論の必要性などの論点を整理します。

そんな中、コロナ分科会の尾身会長をはじめとする専門家グループによる提言がいよいよ公開されました。

コロナ専門家有志の会:2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会開催に伴う新型コロナウイルス感染拡大リスクに関する提言

https://note.stopcovid19.jp/n/n60ff3720a61a

これは内容的には、「まあそりゃそうだよね」という内容となっており、結論としては同意します。ところが、これを「リスク評価」だと言われてしまうと「うーん、、、微妙」となってしまうのです

本記事では、尾身提言を「リスク評価」として見た場合にのどの辺が微妙なのかを解説していきます。まずこの提言はリスク評価部分とリスク管理部分に大きく分かれていますので、それぞれを説明していきます。最後に、別のリスク評価の優良事例として、オリンピックの開会式の解決志向リスク評価の研究について紹介します。

尾身提言のリスク評価について

まずはp2の「【1】 はじめに」の部分にある提言の目的を見てみましょう。


・この提言の目的は、2つあります。まず、多くの地域で緊急事態宣言が解除される6月20日以降、本大会期間中を含め、ワクチンの効果等により重症者数の抑制が期待できるようになるまでの間、感染拡大及び医療逼迫を招かないための提言をすることです。そして、本大会に関連して大会主催者や関係者に適切な判断をして頂くため、直接的および間接的なリスクを評価することです。

目的はリスク評価とリスク管理の提言という2つあると書かれています。そこで、まずはリスク評価の部分を見ていきます。p3~5にかけての「【4】6月下旬以降の感染拡大と医療逼迫に関するリスク」の部分になりますね。

オリンピックの開催と関係なく存在するリスクの部分(p3)では、いくつかのシミュレーション結果をもとにした定量的な内容になっています。一方で、大会開催に伴って新たに生じうる感染拡大のリスク(p4-5)の部分では、定量的な話はほとんど出てきません。唯一出てくる数字は、オリンピックの一都三県の会場における1日あたりの販売済みチケット数は約43万人であるのに対して、プロ野球は約4.7万人、Jリーグは約 0.7万人、というものだけです。東京のイベントはプロ野球とJリーグだけではないので、結局のところ普段と比べて人流がどれくらい増える可能性があるのかについては全然よくわかりません

仲田さんのシミュレーション方は
・ 人流6%追加増(フル観客、開催地路上で大勢で大声で応援、飲食店等で大勢の飲食と五輪観戦の許容を想定)
・ 人流2%追加増(50%観客、観戦前後の飲食店立ち寄りを一定程度許容、飲食店等での五輪観戦を想定)
と簡単に根拠が書いてありますが、古瀬さんのシミュレーションのほうは何も言及がないままに5%,10%の人流上乗せのシミュレーションが出てきます。

反対にデルタ株の影響の考慮については、仲田さんのほうにはなく、古瀬さんのほうにはあります。このようなやり方の違う複数のシミュレーションがあるのはよいことだと思います。複数の結果が一致していれば信頼性が高まります。

また、飲食の機会が増えるという定性的なこと(p5)は当然だと思いますが、どれくらい増えるのか、という定量的な数字が出てきません。これなくしてリスク評価は不可能なはずです。産総研の研究では、Jリーグの試合後に家族以外と外食する確率は6-8%であったとの数字が出てきていますが、もちろんJリーグとオリンピックでは違ってくるだろうとは思います。

産総研:Jリーグのスタジアムやクラブハウスなどで新型コロナウイルス感染予防のための調査(第三報)

結局のところ、オリンピックによる直接的・間接的な人流の増加についてはやはり「感染症の専門家」がカバーできる範囲ではないと思うので、その分野の専門家を連れて来る必要があろうと思います。

また、非常に不確実性の高いシミュレーション結果に基づいた提言であるのに、その不確実性に関する言及が一切ない、というところも気になります。モデルのパラメータは全て一つに決め打ちなのでしょうか。

ということで、基本的にこれまでの感染状況と今後の感染者数などのプロジェクションに基づいた「専門家の解析&考え」ではありますが、「リスク評価」という言葉を使われてしまうと不満が残る、という感想です。

尾身提言のリスク管理について

次に、p5~7の「【5】感染拡大リスクを軽減するための選択肢」つまりリスク管理の提言を見ていきましょう。オリンピック内外のことが挙げられていますが、特にオリンピックに関係するリスク管理については以下のように記載されています。


(2)大会主催者に対する提言: 大会におけるリスク軽減策(一部抜粋)
① 大会規模の縮小について
既に大会組織委員会におかれては、報道関係者やスポンサー等の数を制限する取り組みを進めておられます。今後も可能な限り、規模が縮小されることが重要です。

② 観客の収容方針について
リスク分析の結果からみると、当然のことながら、無観客開催が最も感染拡大リスクが少ないので、望ましいと考えます。
ただし、観客を入れるのであれば、以下の点を考慮して頂きたいと考えます。

イ) 本大会は、規模や注目度において通常のスポーツイベントとは別格である。従って、観客数を限定するにあたって、現行の大規模イベントの開催基準を適用するのではなく、さらに厳しい基準に基づいて行うべきである

ロ) 都道府県を越える人々の人流を抑制するために、観客は、開催地の人に限る。さらに、観客は、移動経路を含めて感染対策ができるような人々に限ること(例えば、地元の自治体や保護者の同意を得た上で小学生を招くことも一つの選択肢として考えられる)

②で、リスク分析の結果から見ると無観客が望ましい、と書いてありますが、これはリスク評価をしなくても誰でもわかることだと思います。あるリスクをゼロにするには何もしなければよいのです。そして「何もしなければリスクゼロ」というのはリスク管理でも何でもありません。

受け入れられるリスクレベル(安全目標)はどこにあるのかを示し、そして観客を入れる以上どのような対策をとってもその水準以下にリスク抑えることができない、ということを示して初めて「オリンピックは無観客が望ましい」という提言につながるのです。

つまり、ここに書かれているような対策を行ったら、対策を行わない場合に比べてどうなるのか?ということを示す必要があります。観客数がAの場合のリスクはこう、Bの場合のリスクはこう、観客を開催地の人に限った場合のリスクはこう、などのことです。最近話題と飲酒を許可した場合と禁止した場合はこう、というのも同様です。

これは解決志向リスク評価と呼ばれるものです。「コロナはどれくらい怖いか?」を問う従来の問題志向リスク評価に比べて、「行おうとしている対策の効果はどれくらい?」が問いになります。このような評価がなければ、効果はよくわからないがとにかく際限なくリスクを下げろ下げろ、中止すればゼロリスクだ、というだけの話になってしまいます。

また、安全目標に関する言及がない、ということも気になります。図6などを見るとなんとなくステージ4になってはいけない、という感じがしますが、線引きについてはどこにもそれが明言されていないのです。p6に

多くの地域で緊急事態宣言が解除される 6月20日以降、大会期間中を含め、ワクチンの効果で重症者数の抑制が期待できるようになるまでの間に、感染拡大による、深刻な医療逼迫をなんとしても避ける必要があります。

とあり、深刻な医療逼迫がエンドポイントになっていることは読めるのですが、「深刻な医療逼迫」とは何なのかを明確にする必要があったと思います。それがなければどこまで対策すべきかの水準がわかりません。

解決志向リスク評価の事例

ここまでで解決志向リスク評価の考え方を紹介しましたが、これはリスク管理対策の効果を評価するものなので、すでにリスク評価と管理を分離する、という原則から外れてしまっています。しかし今必要なのはこのような評価です。さらに詳しくは以前に書いた記事をご覧ください。

コロナウイルスのリスクガバナンスにおける科学と政治その5:リスク評価・管理の分離から解決志向リスク評価へ
専門家はリスク評価、行政・政治はリスク管理という評価・管理分離論がリスク対策においては主流となっていますが、今回のコロナウイルス対策の事例を見てもいろいろと不都合が浮かび上がってきました。「解決志向リスク評価」はそのような関係性を再構築するものです。

やはり政府としては、オリンピックを有観客で開催した場合にどのような対策をしたらどうなるか、というシミュレーションを欲していたのではないでしょうか?そこでどれだけ対策をやってもダメだね、という結果を出せばよかったと思います。無観客じゃないとダメ、という結論ありきでは最初から意見を聞く気を持ってもらえません。

ここで、オリンピックに関する解決志向リスク評価の事例を紹介したいと思います。以下は東京大学から出された2021年3月22日付けのプレスリリースです。

東京オリンピック開会式の感染リスクアセスメントと対策の評価を行う初のシミュレーションモデルを開発

東京オリンピック開会式の感染リスクアセスメントと 対策の評価を行う初のシミュレーションモデルを開発観客の新型コロナウイルス感染リスク評価を実施|東京大学医科学研究所

本研究は、単にCOVID-19感染リスクの程度を評価することに着眼したのではなく、どのような対策を行うとどの程度の感染リスクの低減につながるかに重点を置いた「解決志向型のリスク評価」を行った点に特徴があります。

ただリスクリスクと驚かすだけではない、対策の効果に重点を置いた評価であることが明記されています。尾身提言にあったような現状から将来へのプロジェクションではなく、ウイルス量の曝露評価と、その曝露を受けた場合の感染に関する影響評価に分かれており、標準的なリスク評価の手法を使ったものです。パラメータの不確実性はモンテカルロシミュレーションによって扱っており、これもリスク評価では標準的な方法です。それに加えて、最後に注意事項や不確実性についての言及もきちんとあります。

研究では(a)入退場時の物理的距離、(b)環境表面の除染、(c)スタジアム内の空気の換気、(d)観客席のパーティショニング、(e)マスク、(f)手洗い、(g)髪の防護の7つの対策を行った場合の感染リスクを比較して効果を見ています。それぞれ単独の対策では効果が弱いのですが、全ての対策を行うと99%のリスク低減効果が見られたという結果になっています(モデルの中身は見ていませんので結果の妥当性は判断できません)。

じゃあそれで安全に開催可能になるのでしょうか?リスク評価に加えて、そのリスクを受け入れられるか否か、というもう一つのステップが必要になります。これについてもきちんと言及されています。

本研究の意図は、東京オリンピック・パラリンピックの開催が可能であるかを判断することではありません。東京オリンピック・パラリンピックの開催は、COVID-19流行下において、あるレベルのリスクが存在することを受け入れるかどうか、社会的討議によって決定されるものです。

リスク評価を専門とする私から見ると、やっぱりリスク評価ってのはこういうものだよなあ、と強く感じます。リスク評価はこういう作業を一つひとつやっていくことで、これでようやくリスク管理に言及できるのです。この研究は開会式のスタジアム内での感染に関するものですが、人流増加によるリスクなど、他の場面でも同様でしょう。

まとめ:オリンピック開催に関する尾身提言

オリンピック開催に関する尾身提言の内容についてリスク評価の観点から見ていきました。人流の増加の程度に関しては根拠が乏しく、定性的な話にとどまっています。このように不確実性の高い話であるにもかかわらず、不確実性の扱いに関する言及が全くないことも非常に気になりました。リスク管理に関してはリスク評価に基づいたものになっておらず、安全目標も不明確で、「何もしなきゃリスクゼロ」と言わんばかりの内容です。最も欠けている「解決志向リスク評価」という視点です。この視点がなければ政治家達に受け入れられる内容にならないのでは、と危惧します。

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