要約
排水基準と環境基準の関係について、原発処理水と事業所排水ではその考え方に大きな違いがあります。原発処理水の排水基準は飲んでも問題なレベルとしてトリチウム1500Bq/Lが設定されていますが、事業所排水では飲めるレベルにまで処理する必要はなく、放出された環境中で希釈された後に飲めるレベルになっていることが求められます。
本文:原発処理水と事業所排水の考え方の違い
2023年8月24日に東京電力福島第一原子力発電所から処理水の海洋放出が始まりました。
このことが決まると大きなニュースとなりましたが、日本国内では一部の活動家を除いてそこまで大きな反発というのは出ていないように見えます。一方で、海外では特に中国が強く反発し、報復措置として日本産水産物の全面禁輸を発表しました。
実際に放出後どうなったかということですが、現時点では速報値としては海水中から放射性物質は検出されていません。今後さらに精密な分析が行われる予定となっています。
このモニタリングの結果も以下のようにニュースとなっていますが、見出しに「基準値下回る」と書いていますが、どの水が何の基準値を下回ったのか本文を読んでもよくわかりません。
BBC News Japan: 福島第一原発の海域のトリチウム濃度、処理水放出後も基準値下回る=東電
基準となりそうな数字として、トリチウム濃度10, 350, 700, 1500, 60000Bq/Lが本文中で出てきます。まず放出前の配管内の海水で1500Bq/L以下であったことが確認され、日本の安全基準は60000Bq/Lで、発電所周辺の海水で検出限界値10Bq/L以下で、さらに放出停止判断レベル700Bq/L、調査レベル350Bq/L以下であることを確認した、と書かれています。
たぶん記事を書いた人も基準値がごっちゃになっていてわかってなさそうな感じがします。まずは、排水中の基準と放出された環境水中の基準の二つにざっくりと分ける必要があります。この二つの関係性を理解する必要がありますね。
一方で原発排水とは別に、工場などの事業所排水を放出する際にも排水中化学物質の基準値が定められており、さらに環境水中の基準値も別途定められています。
これら原発排水と事業所排水の基準値の考え方を比べてみるとずいぶん違うことがわかります。そこで、本記事では、排水基準と環境基準の関係をまとめます。原発処理水と事業所排水のそれぞれの基準について、考え方の違いに注目しながら解説します。
原発処理水の排水基準と環境中の目安濃度
まずは原発処理水の排水中トリチウム濃度の基準値についておさらいします。これについてはすでに本ブログの過去記事で詳しく書いているので、簡単に紹介します。
・原発に由来する敷地内から敷地外への放射性物質の排出を年間1mSv以下に抑えなければならない
・放出口における濃度の水を、生まれてから70歳になるまで毎日約2リットル飲み続けた場合に、平均の線量率が1年あたり1ミリシーベルトに達する濃度を告示濃度限度とする
この告示濃度限度をトリチウムに関して計算すると60000Bq/Lになります。ただし、トリチウムだけではなくセシウムやストロンチウムなど他の核種の存在も考慮し、さらにがれき由来など他の排出源を考慮する必要があります。よって、1mSv/年をそれぞれの排出源に割りあて、トリチウムへの割りあては1/40の0.025mSv/年になるため、1500Bq/Lが基準値になります。
このことから、原発処理水中のトリチウム濃度を1500Bq/L以下にして放出する必要があります。これが排水基準ですね。一方で、放出先の海水中におけるトリチウムの基準値というものは存在しません。
ただし、何かしらのアラートになるような参考値というものはいくつか示されています。例えば、環境省の「ALPS処理水に係る海域モニタリング専門家会議」では以下のような記述があります。
○なお、総合モニタリング計画に基づくモニタリング結果において、発電所から3km以内の測点で700Bq/L、それより遠方の測点で30Bq/Lを超過した場合は、原子力規制庁は、速やかに東京電力に連絡する。
ALPS処理水に係る海域モニタリング専門家会議(第9回) 資料3-3 : 海洋放出後のモニタリングの結果 の 取扱いについて (案)
https://www.env.go.jp/water/shorisui/committee/009.html
排水中濃度が1500Bq/L以下であれば海水中濃度は700Bq/Lを超えることはないはず、海水中濃度は通常20Bq/L以下(根拠は後で説明)なのでこれを明らかに超える濃度として30Bq/L、がそれぞれ設定されたようです。
さらに、700Bq/Lの半分となる350Bq/Lを超えた場合には運転状況や操作手順の確認、追加のモニタリングなどの措置をとる「調査レベル」が設定されました。この700, 350, 30という数字も上記の「ALPS処理水に係る海域モニタリング専門家会議(第9回)」の「参考資料5 :多核種除去設備等処理水の取扱いに関する海域モニタリングの状況について」に記載があります。
通常の海水中濃度は20Bq/L以下という数字は、環境省による「ALPS処理水に係る海域モニタリング情報」のWEBサイトの「身の回りにあるトリチウムの濃度範囲(日本全国) 海水20Bq/L以下」というところに出てきます。
ということで、海水中濃度の目安としての20, 30, 350, 700Bq/Lという数字の根拠にたどり着けました。
化学物質の排水基準と環境基準
原発処理水の場合は排水そのものが飲んでも問題ないレベルまで処理あるいは希釈してから放出する必要がありました。ただし、排水を飲むわけではありませんし、放出先は海水ですからその海水を飲むわけでもありません。そもそも飲めるレベルにまでする必要はないのですね。
一方で、事業所からの排水などの化学物質の場合は、排水基準が定められているものの、その排水そのものを飲めるレベルにまで処理する必要はありません。放出先の河川水などで希釈されるわけですから、その放出先で希釈された水が飲めるレベルであればそれで良いわけです。
この排水基準は水質汚濁防止法で定められ、昭和46年に22項目の基準から始まりました。現在は43項目(有害物質28項目、その他の項目15項目)まで増えています。例えばカドミウムは0.03mg/Lとなっています。
環境省:一般排水基準
このような基準をクリアした排水が放出された後の環境水中の基準は環境基準として定められています。水質汚濁に関する環境基準は「人の健康の保護に関する環境基準」と「生活環境の保全に関する環境基準」に分かれています。
人の健康の保護に関する環境基準のほうは有害物質に関する排水基準と対になっていますが、殺虫剤の有機リンだけは排水基準にありますが環境基準にありません。カドミウムの環境基準は0.003mg/Lで、排水基準の1/10になっています。
環境省:水質汚濁に係る環境基準
このように排水基準が環境基準の10倍になっているのが10倍ルールと呼ばれるものです。これは健康に関する項目だけで、生活環境に関する項目は10倍ルールが適用されません。
健康に関する環境基準は他の項目のことは考えずに、1日2Lの水を毎日飲んでも健康に影響がないレベルとして定められます。排水基準はこの10倍ですから、排水そのものを飲めるレベルに希釈する必要はないわけです。
この考え方をトリチウムに適用すれば環境基準は60000Bq/Lに相当します(1500Bq/Lはほかの核種やがれき由来などの排出も考慮したものです)。そして排水基準はこれに10倍ルールを適用して600000Bq/Lということになるでしょう。実際のトリチウムの排水基準は1500Bq/Lであり、考え方がかなり違っていることがわかります。こういう違いに注目すると「基準値って面白い!」となりますね。
排水基準10倍ルールの根拠
化学物質では10倍ルールがあり排水基準が環境基準の10倍となっていました。一方で、原発処理水の場合は排水基準と環境中の目安濃度との間の明確(○○倍ルールとか)な関係はわかりませんでした。
ところで、そもそも化学物質の10倍ルールはどこから出てきた数字なのでしょうか?最近の説明を読めば、排水が放出先の河川などで10倍以上には希釈されるからだ、とされています。だから10倍に希釈されたときに飲んでも大丈夫なレベルとして設定されているということです。
排水基準が環境基準の10倍値(”10倍希釈”)とされる根拠について、例えば平成27年4月21日の中環審の答申第842号では以下のように示されている。
経済産業省 (2018) 環境規制に係る基準値の設定に関する整理
「有害物質については、原則として、水の健康の保護に関する環境基準値の10倍に設定されているが、これは排出水の水質は公共用水域に排出されること、そこを流れる河川水等により、排出口から合理的な距離を経た公共用水域において、通常少なくとも10倍程度に希釈されると想定されることに基づくものである。」
https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/sangyo_gijutsu/sangyo_kankyo/pdf/006_04_02.pdf
しかしです。これは最近の解釈であって、実はもともと違う説明がされていたのです。排水基準を定める水質汚濁防止法が昭和45年に国会で議論された際の説明は以下の通りです。
160 ○政府委員(西川喬君)
第64回国会 参議院 公害対策特別委員会 第3号 昭和45年12月14日
「健康項目につきましては、現在とっておりますのは、環境基準の十倍値を排水基準といたしております。十倍といいますのは、いわゆる川の流量等で申します希釈という考え方では実はございません。川の流量ではございませんで、海あるいは湖沼のことを考えていただきますと、わかるかと思いますが、海や何かにぼとっと一滴落とした、その場合に、直ちに落としたものが、濃度としては約十分の一に薄められるということを念頭に置きまして、現在十倍というものをとっておるわけでございます。実際的には、有毒物質を含みます数量というのは、一般的には非常に流量が少のうございまして、排水量が少のうございます。それですから、川などで申します場合には、とうてい十倍程度の川の流量ではございません。何百倍という流量がございますが、一応ぽとっと落としたときに約十倍に希釈されるということを念頭に置いて、十倍ということにいたしておるわけでございます。」
https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=106414207X00319701214¤t=3
河川で希釈されるという考え方ではないと言い切っていますね。川の水と完全に混合して希釈される前であったとしても、川に流れた瞬間にもう10倍くらいには薄まっている、という考え方なのだそうです。その後はさらに河川水と混ざることによって最終的にはもっと薄まっていきます。
ということで最初の原発処理水の話に戻れば、放出された瞬間に10倍くらいには希釈されるだろうけど、そこから放出先で海水と完全に混ざってさらに希釈されるには時間がかかるので、あらかじめ海水で希釈してから放出する、ということになっているわけですね。この辺の考え方も化学物質とはずいぶん違うようです。
(もちろん原発処理水も排水基準が適用されるため、カドミウムなどの有害物質もすべて基準値をクリアしていることが確認されています)
まとめ:原発処理水と事業所排水の考え方の違い
事業所排水中の化学物質の場合は、環境基準は飲んでも問題ないレベルとして設定され、排水基準10倍ルールとして環境基準の10倍値が採用されます。一方で原発処理水の場合は処理水自体が飲めるレベルにまで希釈されている必要があり、○○倍ルールのようなものはなく、環境水中の基準として数段階のアラート的な目安濃度が設定されています。
次回の記事では、中国による日本の水産物禁輸措置への今後の対応の参考として、2019年に日本が韓国にWTOの訴訟で敗訴した理由についておさらいます。争点の一つとなったALARAの原則についてどう向き合えばよいかに注目して解説します。
コメント