オリンピックにおける性別確認:テストステロン10nMの基準値のからくり

基準値問題

今回は夏休みのため、通常のブログ記事の更新はお休みします。その代わりに、現在東京オリンピックの最中ということでもあるので、オリンピックにおけるトランスジェンダーを含む女子選手としての出場の基準値(テストステロン濃度10nM)の根拠について書いてみます。これも一種の線引き問題です。

東京オリンピックにトランスジェンダー選手が女子選手として出場

当ブログでは安全か危険かの線引き問題をメイントピックの一つとしています。

基準値問題
「基準値問題」の記事一覧です。

普段から書いているように安全か危険かの線引きは非常に難しい問題ですが、男女の線引きはもっと簡単だろうと思われがちです。ところが、これもそんなに簡単なものではありません。特に東京オリンピックでは、トランスジェンダーの選手が女子として出場することが物議をかもしています。

BBC NEWS JAPAN:トランスジェンダー選手が東京五輪代表に、五輪出場は史上初 「不公平」と物議も

トランスジェンダー選手が東京五輪代表に、五輪出場は史上初 「不公平」と物議も - BBCニュース
ニュージーランドの重量挙げ選手で、トランスジェンダーのローレル・ハバード(43)が21日、東京五輪の女子代表選手に選ばれた。トランスジェンダーの選手が五輪に出場するのは史上初。不公平だという声も上がっている。

ハバード選手と同じ階級のアンナ・ヴァンベリンゲン選手(ベルギー)は先月、もしハバード選手が東京五輪に出場することになれば、女性にとって不公平でまるで「悪い冗談のようなもの」だと発言した。

ヴァンベリンゲン選手はさらに、自分はトランスジェンダー・コミュニティを全面的に支援するものの、包括性の原則は「他人を犠牲にして」実現するべきものではないと述べていた。

また、「重量挙げを高いレベルでトレーニングしたことのある人なら誰でも、骨身にしみて分かっている。この特別な状況はスポーツとアスリートにとって不公平だと」とも述べた。「メダルや五輪出場権など、人生を変えるような機会を逃す選手もいるというのに、私たちは無力だ」。

https://www.bbc.com/japanese/57550038

国際オリンピック委員会(IOC)は2016年から現在のトランス・ジェンダーポリシーを運用しており、女子選手としての出場に際し、
①性自認が女性であること
②テストステロン濃度が10nM以下(競技前1年以上の維持が必要)であること
の2つの条件が決められています。

本記事ではテストステロン濃度10nMという「基準値」を中心に、オリンピックにおける性別確認についてまとめます。

オリンピックにおける性別確認の歴史:テストステロン濃度10nMの登場まで

まずはロンドンオリンピックでテストステロン濃度10nMの線引きが登場するまでの歴史を年表形式で見ていきます。

1936年ベルリンオリンピックの女子100m走で金メダルをとったアメリカの選手ヘレン・ステファンに性別疑惑が持ち上がり、目視検査の結果女性と判断。しかし逆にステファンの性別疑惑を持ちあげたポーランドの女子選手が死後に男性と判断された。
1964年東京オリンピックにおいてDr. de Mondenardは女性メダリストの26.7%は女性ではなかったと述べた。
1966年欧州陸上選手権において性器の目視検査が出場する女子選手に必須となる
1967年1964年の東京オリンピックの400mリレーで金メダルを獲得したポーランドの選手エワ・クロブコフスカが性染色体検査の結果によりメダルをはく奪(後に男児を出産しメダルは返却)
1968年メキシコシティーオリンピックにて正式に染色体検査が導入。
1992年バルセロナオリンピックで、XY染色体を持つ完全型アンドロゲン不応症であるスペインの選手マリア・ホセ・マルティネス・パティニョに女性としての出場権が認められた(最終的にはタイムが足りずに出場できず)
2000年シドニーオリンピックで、女子選手全員ではなく疑いが生じた一部選手にのみ性別検査を実施
2012年ロンドンオリンピックで、血中テストステロン濃度10nMが女子競技出場の”線引き”として採用

性別確認検査は性器の目視確認->染色体検査->性ホルモン濃度の検査と変わってきました。目視検査は全員が全裸にさせられて産婦人科医師の確認を受けるもので、人権侵害との声も多くすぐに撤回されました。

その後導入された染色体検査では、XY型が男性・XX型を女性と判定するものでした。ところがこれも東京オリンピックのメダルを一時はく奪されたエワ・クロブコフスカ(XX型とXXY型の遺伝的モザイク、2021年8月3日修正)のように、典型的に2つに分かれるものばかりではありません。また、XY型であっても、先天的な性分化疾患の一つである完全型アンドロゲン不応症は、体つきは女性で性自認も女性である場合が多いものでした。このような状態が染色体検査によって初めて判明することもあり、しかもそれが公になることについての問題もありました。

特に、1992年にXY染色体を持つアンドロゲン不応症の選手に女子としての出場資格が与えられたころからこの検査についての限界が明らかとなり、シドニー五輪からは女子選手全員への検査は無くなりました。ただし、疑いが生じたケースではやはり検査が行われることとなり、しかもその疑いとは外見が女性らしくないという非常に差別的なものでした。さらにはその外見の判断が白人目線でのものであり、疑いを持たれるのはアジア圏の選手が多いこともまた差別的でした。

やはり代わりとなる検査が必要ということで、ロンドン五輪からはテストステロンによる基準が登場します。これは「性別を決定する」というよりは、あくまで女子選手としての出場権に関するルール、という意味合いに変わっています。テストステロン10nMという基準値が「女性であることの定義」みたいに扱われることも多いのですが、これは全くの間違いです。

テストステロン法は、男性ホルモンの一種であるテストステロンの濃度に男女差があることをベースにした検査方法です。女性の場合テストステロン濃度は0.12-1.79 nMであるのに対し、思春期後の男性の場合は7.7-29.4 nMであるとされています。

オリンピックにおける性別確認の歴史:テストステロン濃度10nMの問題

ここから先はロンドン~リオ五輪にかけて出てきたテストステロン濃度10nMの問題について見ていきます。

2013年インドのデュティ・チャンドはテストステロン基準値超過のため女子選手として出場できなくなった
2014年この決定に対してチャンドがスポーツ仲裁裁判所(CAS)に異議申立てを行う
2015年CASがテストステロン法の一時停止の判決。「人間の性は単純に二分できるものではない」、「テストステロンの数値が高い女性アスリートが実際に大きな優位性があるという科学的証拠を示す必要がある」
2016年リオオリンピックは性別確認法がないまま開催。チャンドは女子として出場(予選敗退)。また、南アフリカ共和国のキャスター・セメンヤは女子800mで独走し金メダルを獲得。

セメンヤは2009年のベルリン世界陸上で優勝して頭角を現しましたが、この時6位に終わったイタリアのエリサ・クスマ選手は「こういう人間は私たちと一緒に走るべきではない。私には女じゃなくて、男に見える」と不満をこぼしました。

セメンヤは性別検査の結果、外性器は女性ですが卵巣と子宮はなく、未発達の精巣がありテストステロンの値は平均的な女性の3倍でした。また、女性と結婚しているようです。

さらに、リオ五輪の女子800mではセメンヤを含むメダリスト3人すべてが体内に精巣を持ち、テストステロン値が男性レベルだったとの説明がありました。

さて、CASがテストステロン法の適用を中止するよう命じた理由は、テストステロン値により競技上有利となる科学的エビデンスがない、というものでした。スポーツのルールに科学的エビデンスを求められる、というちょっと変わった状況になってきました。

野球がなぜ3アウトでチェンジなのか科学的エビデンスを示せ、と言われても困りますよね。今後は特定の選手を狙い撃ちにしたと疑われるようなルール改正はエビデンス付きで出さないといけなくなるのでしょうか?

ということで、科学的エビデンスがそろうまで性別確認ができないという状態でリオ五輪が開催され、セメンヤの活躍によりまた議論が再燃します。

2018年国際陸連はテストステロン値が高い女子は最大4.5%の競技力向上が望めるとする調査結果を公表し、テストステロン5nMの基準値を導入(400~1600mの競技に限定)。セメンヤは同規定の無効を求めてCASに訴えたが棄却。
2021年セメンヤは基準値超過のため東京オリンピック女子800mに出場できず。テストステロン法が適用されない200m、5000mでの出場を目指すもタイムが足りず。

国際陸連が出したエビデンスとは、2011年に韓国の大邱、2013年にロシアのモスクワで行われた世界陸上選手権大会に出場した2127人の選手のデータを分析したところ、テストステロン濃度の高いグループの方が統計的有意に成績がよかったというものです(Bermon and Garnier 2018)。

ただし大邱の研究では、出場した女子選手(=アスリートとしての能力が高いグループ)のテストステロン濃度の範囲は通常の女性のテストステロン濃度の範囲とあまり変わらなかったという結果も出ており、いつもの安全にかかわる線引き問題と同様にスッキリとするものではなさそうです。

ということで今日の東京オリンピックに至っています。テストステロンによる優位性についてのエビデンスもちゃんと出てきました。またテストステロン濃度の基準値は10nMから5nMまで下げられることになりました。ただし、この基準値はセメンヤ狙い撃ちなどの批判もあり、今後も安泰とはいかないかもしれません。

オリンピックはトランスジェンダーなどの多様性にどう向かっていくのか?

大げさな見出しを付けてしまいましたが、私の興味はあくまで線引き問題なので、あまり多くを語らないようにします。トランスジェンダー選手の出場条件が定められたのは2003年と結構前のようです。当初は以下の3条件でした:
①性別適合手術を受けてから2年以上が経過していること
②十分な期間のホルモン療法が検証可能な方法で行われていること
③新しい性が法的に承認されていること

ただし、性別変更手術や法的な性別の変更が認められていない国もあるため、2016年からは以下のように法的な要件や手術要件が無くなって実質テストステロン濃度のみになりました:
①性自認が女性であること
②テストステロン濃度が10nM以下であること

10nMはロンドンオリンピックで採用された基準値がそのまま使われているものと考えられます。2018年から国際陸連が採用した新基準値5nMに今後改正される可能性もありますね。

さらに、上記のようにテストステロン濃度の幅を見ると、男性でも10nMよりも低い人がそれなりにおり、ルール上この人たちは性自認が女性であると宣言するだけで女子選手として出場できることになってしまいます。

スポーツである以上、ルールを作ってそれを守らざるを得ません。ルールの変更によって特定の選手に有利・不利になることはこれまでもたくさんありました。日本人が勝つと日本人が不利になるようにルールが改正される、等の話もたまに出てきますね。競技が男女に分かれている以上、どこかで線引きは必要になりますし、すべてのルールに厳密な科学的根拠を求めるのは土台無理なことです。

男女の区別がないのは馬術など一部競技のみになっていますが、柔道やレスリングなどが体重別で競技するように、テストステロン濃度別みたいにやれば男女別も廃止してよいのかもしれません。ただし、テストステロン濃度の調節は体重の減量とは違って薬剤に頼らざるを得ないので、ドーピングになってしまいますね。

この辺様々な議論がありますので、もっと興味のある方は以下にあげた文献などを読まれるとよいかと思います。

参考にした情報、論文など(WEBサイトは一部のみ)

BuzzFeedNews:女を否定され、競技人生を絶たれたアスリート 性を決めるのは性器かホルモンか?

女を否定され、競技人生を絶たれたアスリート 性を決めるのは性器かホルモンか?
女と男の境界とは

松宮智生 (2016) スポーツにおける男女二元制に関する一試論 ―性別確認検査 における女子競技者の基準を起点に―. THE ANNUAL REPORTS OF HEALTH, PHYSICAL EDUCATION
AND SPORT SCIENCE 35, 19-27

https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=12558&item_no=1&attribute_id=189&file_no=1

建石真公子 (2017) 〈海外文献紹介〉アナイス・ボウオン『スポーツ競技における女性性確認検査(性別確認検査)-X分類の歴史-』. スポーツとジェンダー研究, 15, 98-106

アナイス・ボウオン 『スポーツ競技における女性性確認検査(性別確認検査)-X分類の歴史-』
J-STAGE

松下千雅子 (2020) スポーツにおける公平性と多様な性 : IAAFによるDSD規定に関して. 関西大学人権問題研究室紀要, 80, 41-52

関西大学学術リポジトリ
CMS,Netcommons,Maple

Maayan Sudai Author Notes (2017) The testosterone rule – constructing fairness in professional sport. Journal of Law and the Biosciences, 4, 181-193

testosterone rule—constructing fairness in professional sport
This note engages in the public debate over the participation of female athletes with hyperandrogenism in professional sport. Hyperandrogenism, a condition lead

Stephane Bermon, Pierre-Yves Garnier (2018) Serum androgen levels and their relation to performance in track and field: mass spectrometry results from 2127 observations in male and female elite athletes. British Journal of Sports Medicine 52, 1531-1532

Serum androgen levels and their relation to performance in track and field: mass spectrometry results from 2127 observations in male and female elite athletes
Objective To describe and characterise serum androgen levels and to study their possible influence on athletic performance in male and female elite athletes. M...

上記論文の全文ダウンロードは以下:

https://www.iaaf.org/download/download?filename=66958208-d45a-480b-995c-cbdf36ca5af2.pdf&urlSlug=bermon-et-al-bjsm-2017

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