要約
「コロナでだけは死にたくない」という人が結構いるとのことですが、死に方にも良い―悪いという認知があるように、リスクにも良いリスク―悪いリスクという認知があります。専門家による分析的なリスクの大きさの判断とは異なり、良い―悪いという感情がリスクやベネフィットの大きさの認知にも大きく影響します。
本文:良いリスクと悪いリスク
「コロナでだけは死にたくない」という人が結構いると医療従事者である身内から聞きます。コロナで死ぬのは「悪い死に方」ということなのでしょう。以下のブログにもそのような話が出てきますので、決して珍しくはないのでしょう。
コロナにだけは罹患して死にたくない?
上記ブログは「笑い話」としてこの話題を取り上げてますが、感情的には何で死んでも「死」は「死」だとはいかないものなのだと思います。
一方で、本ブログでは死亡率によるリスク比較をたくさん行ってきましたが、そこでは何で死のうが一人の死は同様にカウントします。専門家による通常の「分析的な」リスクの判断はこのような統計によって行われるものですが、一般の市民の場合は「良い死に方」、「悪い死に方」を区別するなど、より幅広いリスクの捉え方をするようです。
ほかにも、みんなが死んでいる要因(がんなど)で死ぬのはしょうがないと思えるが、みんなが死んでないような要因で死ぬのは納得がいかない、という考え方をする人もいます(実際に話を聞いた)。死に方までみんなと同じじゃないといけない、というのが日本人の平等感なのかもしれません。
本記事では、良いリスクと悪いリスクとはいったいどのようなものか、認知心理学的な研究から考えてみたいと思います。
専門家によるリスクの判断と市民のリスクの判断
上記のように、専門家は分析的にリスクの大きさで判断します。食品であれば、その中の農薬や重金属濃度がどれくらいで、それらの化学物質の毒性は〇〇で、結果的にリスクの大きさはこれくらい、などの分析を行います。
ただし、日常生活で常にそのようなことを考えていられません。朝昼晩と食べるものすべてこれは本当に食べても大丈夫なものなのか、通りの建物すべてこれは今震度7の地震がきても崩れないかどうか、近づいてくる人すべてこの人は突然ナイフを取り出して襲ってこないか、など考えだすときりがありません。一日中目の前のリスクのことばっかり考えるなんてストレスがたまるばかりです。
その代わりに、もっと素早く直感的にリスクを判断して(リスクを判断していることにすら気づかずに)、なんとなく気味の悪いもの・場所・人を避け、それで一般の市民は日常生活をおおむね問題なく過ごすことができているのです。
このような分析的というよりも経験的な素早い判断(ヒューリスティック)を用いて、あまり脳に負荷をかけずにまあまあ安全に過ごせているならば、それはそれで「合理的な」やり方でしょう。ただし、そのような素早い判断は間違うこともままあります。
例えば、以前本ブログにて、「利用可能性ヒューリスティック」によって、あるリスクで頭がいっぱいになりほかのリスクへの備えがなくなってしまうという例を挙げました。台風が来た時に停電対策で頭がいっぱいになり水害対策を怠ってしまう、危機管理においてテロのリスクにリソースを割き過ぎてハリケーン対策の予算が削られて被害が大きくなってしまう、などがあります。
直感的な素早い判断をシステム1、論理的で分析的な判断をシステム2、とざっくりと二つの思考プロセスに分けることが一般的です。システム2による判断は負荷がかかるので普段はシステム1が優勢で、熟慮しなければいけない場面が訪れるとシステム2が動き出すわけです。
コロナの場合、報道はひたすら毎日〇〇人感染!、△△日連続□□人超え!、●●(場所とか職業とか)で初!、などのニュースを繰り返して感情を刺激し、頭の中をコロナへの恐怖でいっぱいにしてしまいました。
一方で、本ブログで分析的に死亡率を計算してきたように(現時点で10万あたり死者数1.2人程度)、決して楽観視できるようなものではありませんが、火事と交通事故の間くらいであり、人類が滅亡するようなリスクには全然至らないことも明らかです。
感情ヒューリスティックとリスク認知
“the affect heuristic(感情ヒューリスティック)”とは、その対象を良いか悪いか(好きか嫌いか)という感情でまず判断を下し、その対象のリスクやベネフィットは後付けで判断される、という思考過程です。良い(好きな)ものはリスクが低くベネフィットは大きいはず、悪い(嫌いな)ものはリスクが高くベネフィットは小さいはず、という順番で考えるわけです。リスクやベネフィットを分析的に考えるのは大変ですが、その代わりに良いか悪いかで置き換えてしまうことで素早い判断ができるようになります。
本ブログのワクチンの記事にも登場したリスク心理学の大家ポール・スロビックらのグループは、自動車や食品添加剤などさまざまな技術についての好き嫌いとリスク・ベネフィットを答えてもらう実験を行い、好き嫌いとリスク・ベネフィットの認知に高い相関があることを示しました。
面白いことに、判断を急がせるとますますこの傾向は強くなったということです。
しかも、それぞれの技術のベネフィットが高いという情報提供を受けるとリスクも低いと認知を変えるようになり、逆にリスクが低いという情報提供を受けるとベネフィットまで高いと認知が変わってしまいます。
また、リスクとベネフィットは正の相関関係にある(ハイリスクハイリターンもしくはローリスクローリターン)場合が多いのですが、良い―悪いをベースとした感情ヒューリスティックはこれと逆のパターンを示します。
このようなバイアスは一般市民だけでなく専門家にも見られますが、個人差が大きいことがわかっています。
コロナウイルスの場合、普通の人にとってはリスクのみがあってベネフィットは何もないと考えるでしょうから、その時点で「悪いリスク」という判断が下され、悪いリスクはリスクが高いに違いない、と感情と認知がつながってしまうわけです。
実際にはウイルスの多くは従来野生生物の中にとどまっていたものが、人間の開発行為により人間と出会ってしまうことで感染が発生するものなので、どこかの誰かにはその開発によるベネフィットがあったのかもしれませんね。
以下、感情ヒューリスティックに関するスロビックらの論文:
Slovic et al. (2004) Risk as Analysis and Risk as Feelings: Some Thoughts about Affect, Reason, Risk, and Rationality.
Risk Analysis, 24(2) 311-322
“Statistics are human beings with the tears dried off(統計とは涙が乾いた人間である)”なんて名言も出てきます。
専門家と市民はどちらが「正しい」のか?
専門家は統計的な数字を重視し、一般の市民は良い―悪いなどの感情を重視します。では、専門家のほうが正しいのだから、情報提供によって市民の間違ったリスク認知を正してやらなければいけないのでしょうか?
旧来のリスクコミュニケーションはこのような考え方に基づくものも多く、いかに相手を説得するかの技法に焦点が置かれました。日本で転機が訪れたのは2011年の東日本大震災でしょうか。
専門家によるリスク分析にも科学的に不確実な部分が多く、さらに良い―悪いという市民の感情や価値観も無視するわけにもいきません。かといって感情だけで物事を決めるわけにもいきません。しかもこの感情は、直近の報道や情報提供によって移ろいやすいものです。また、市民だって何事もシステム1のみで判断しているわけではなく、システム2による判断も可能です。ここは両者が対立するよりも、分析的なリスクの大きさや、感情や価値観を含む複数の指標によって総合判断するべき、となるでしょう。最終的には政治の出番です。
ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンは著書「ファスト&スロー」の中で「合理的であれ、不合理であれ、不安は苦痛をもたらし活力を失わせる。だから政策立案者は、市民を現実の危険から守るだけでなく、不安からも守る努力をしなければいならない」と述べています。ということで「悪いリスク」に対しては、実際のリスクの大きさが低くても何らかの対処を求めるのが現実的な考えのようです。
まとめ:良いリスクと悪いリスク
専門家はどんな死因であっても「死」は「死」とカウントするのに対し、一般の市民は良い死に方・悪い死に方などの感情を抱きます。良い―悪い、好き―嫌いなどの対象に抱く感情がリスクやベネフィットの認知に大きく影響します。このようにリスクとベネフィットの判断を、感情というより簡単なプロセスで判断することを感情ヒューリスティックと言います。ただし、市民の判断は非合理で、専門家の判断のほうが合理的という単純な図式ではなく、市民の判断も取り入れていく必要があるでしょう。
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