要約
科学と政治の間にある純粋科学ではないものの正体はレギュラトリーサイエンスとして整理すると位置づけが明確になります。コロナウイルス対策では、発症後8日間で職場復帰、都道府県ごとの自粛緩和基準、ソーシャルディスタンス2m、37.5度以上が4日間続くときに相談、コロナ対策なしなら42万人死亡予測、などがレギュラトリーサイエンス的な要素です。このときどこまでが科学的ファクトでどこからが仮定に基づく推論なのかを明示することが重要です。
本文:純粋科学-レギュラトリーサイエンス-政策
専門家会議副座長の尾身氏は、専門家会議の政治からの独立性についてどのような姿が望ましいかという質問について、「コロナウイルス対策は純粋な科学ではない」と発言していました。人々の行動を変えてもらうところについて純粋科学ではない点を強調していました。独立性については政府とコミュニケーションとをとりつつも、専門家として譲れない点(integrity、客観性・中立性・誠実性のこと)は保ってきたと述べています。
2020年6月23日の専門家会議の会見
の1:24:00あたりからの尾身氏の発言中に出てきます。下記のようにニュースにもなっています。
こうした経緯を踏まえて公表した提言では、専門家会議に「本来の役割以上の期待と疑義の両方が生じた」と記した。さらに詳しい提案を示すと期待感を高めたり、逆に、人々の生活に踏み込んだと受け止め警戒感を高める人が出たり。「国の政策や感染症対策は専門家会議が決めているというイメージが作られ、あるいは作ってしまった」と指摘した。
https://www.asahi.com/articles/ASN6S7JGBN6SULZU004.html?iref=comtop_8_01
コロナウイルス対策は「純粋科学」ではないとすると一体何と呼ぶべきものなのか?という疑問に思うかもしれません。
リスク学の分野では、純粋科学と意思決定や管理措置の間にあるものは、本ブログでも何度も登場している「レギュラトリーサイエンス」として整理しています。例としてソーシャルディスタンスの記事をご覧ください:
医学の分野では、レギュラトリーサイエンスというと医薬品の承認まわりのこと(効果や安全性の確認)に限定され、科学と政治の関係等の場面でこの用語を使うことは無いみたいなのです。
本記事では純粋科学ではないものとしてのレギュラトリーサイエンスの視点から見たコロナウイルス対策について整理してみました。
化学物質まわりのレギュラトリーサイエンスの例
以前の記事でPFOS・PFOAのリスク評価の例を書きました。
このリスク評価の中では、
- 動物実験の結果から人間の影響を推定(外挿)する
- 動物実験で影響が観察できない曝露量の影響を線形仮定で推定(低用量外挿)する
などの操作をしています。これは科学的に明らかにされた「ファクト」とは違いますね。これを純粋科学の態度で考えるなら「PFOSの人間への影響はまだわからない」となり、「わからないなら実験すべき」と考えます。ただし、これでは現時点で何の判断材料にもなりません。まだわかっていないことを、わかっていることを頼りにさまざまな仮定をおきながら推定して、なんらかの判断材料を提供するのがレギュラトリーサイエンスの考え方です。「純粋科学」とは考え方が異なるポイントです。
ただし、リスク評価はファクトではない、数字の不確実性は大きいことを明示する必要はあります。また、リスク評価には動物から人間への外挿の不確実性は10倍、低用量外挿は線形仮定を使う、などのある意味「約束毎」があります。これも最初はあてずっぽうであったのが、徐々に科学的な根拠ができつつあります。
次に放射線物質の例を考えます。2011年の原発事故後に厚生労働省は食品安全委員会に対して、放射線の健康影響評価を要請して放射線量の許容レベルの設定を求めました。ところが食品安全委員会の答申は、生涯100 mSv 以下の低線量の影響は情報不足で評価できない、という結論でした。
https://www.fsc.go.jp/sonota/emerg/radio_hyoka_detail.pdf
これは「わからないことはわからないというべき」純粋科学的な態度としては正しいのですが、社会からの要請に対して答えを出せず、「正しいが役に立たない」結果だったのです。PFOSの例のように線形仮定を用いてリスクを定量化すれば、受け入れられるリスクレベルを議論することができます。
コロナのレギュラトリーサイエンスの例
レムデシビルやアビガン、デキサメタゾンなど、コロナウイルスに効果があるとされる既存の治療薬や、ワクチンの実用化に向けてのプロセスが進んでいます。医薬品の評価・管理におけるレギュラトリーサイエンスは、化学物質のリスク評価と同様にある程度確立したものがあります。動物実験での有効性や安全性の確認から人間の臨床試験まで、徐々に段階を経て進んでいきます。これも一種の約束事ととらえることができます。
これ以外にもレギュラトリーサイエンスという用語は使われていないものの、レギュラトリーサイエンスの考え方で整理できるものが結構たくさんあると考えます。まず、本ブログで取り上げた内容として以下の3つがあります:
- 発症後8日間で職場復帰
- 都道府県ごとの自粛緩和基準
- ソーシャルディスタンス2m
これらすべてが、科学的ファクトを基にきっちりと線引きできるものではないことを示しました。
ほかにも、途中から変更になりましたが、新型コロナ疑いでの相談・受診の目安として示されていた「37.5度以上が4日間続く」という基準も、なぜ平熱の高低に関係なく37.5度で線引きするのか、なぜ3日や5日ではなく4日なのかというのも、保健所が対応しやすいように定めた目安であって、明確な線引き根拠があるわけではないです。
もう一つ重要なのが、西浦氏によるコロナ対策なしなら42万人死亡という予測です。「科学と政治」のように二分式の考え方ではこれは科学のほうに入るでしょう。ところが、これはやはり「純粋科学」ではなく、様々な仮定の下で推定するレギュラトリーサイエンス的なものになるのです。あたかもこの予測が科学的ファクトであるかのように伝わったことはまずかったのではないでしょうか。科学と政治の間にあるものの存在を明示するにはやはり「レギュラトリーサイエンス」などの名前が必要です。これもリスクコミュニケーションの課題ですね。
純粋科学-レギュラトリーサイエンス-政策はきれいに3分割ではない
さて、「科学と政治」の二分式から「純粋科学-レギュラトリーサイエンス-政策」という3分式にすることで実務上役に立つ科学の役割が見えるようになりました。ただ、3分割したところで、やっぱりきれいに線引きできるものではなくてグラデーションになっているのです。政策のほうからどんな評価が必要かというニーズが下りてくるので、それに合わせて、さまざまなファクトや推論を組み合わせて答えを出そうとする姿勢は常に同じです。それでも、その時の状況として活用できるファクトが多ければ純粋科学に近づき、情報が少なくて不確実性が高ければ純粋科学からは遠くなります。
重要なことはどこまでが科学的ファクトでどこからが仮定や推論に基づくものなのか、を明示することなのです。ソーシャルディスタンスの例では、くしゃみや咳の飛沫(その中でも大粒なもの)が1~2m飛ぶというのは科学的ファクトですが、細かなものはもっと飛ぶので何メートル離れたら感染しないかははっきりわかってはいません。そこからエイヤっと2m離れましょうという対策になっているのです。
対策が途中で変更された時の説明においてもここがポイントです。例えばソーシャルディスタンスで今後は3m離れましょう、と対策が変更されたとします。その時に、実は飛沫は3m飛ぶんです、という新しいファクトが得られたから対策が変わったのか、それともファクトはそのままだけど3m離れても実社会での適用上問題なさそうなので3mに切り替えたのか、リスクコミュニケーションではこの違いを説明することが重要です。
まとめ:純粋科学-レギュラトリーサイエンス-政策
科学と政治の間にある純粋科学ではないものの正体はレギュラトリーサイエンスとして整理すると位置づけが明確になります。レギュラトリーサイエンスの定義自体は非常にふわふわしたものなので、定義を覚えるよりも事例ベースで考えるべきです。コロナウイルス対策においても事例を多数積み上げることで、不確実性の度合いや受け入れられるリスクの大きさ、意思決定の仕組みなどの「相場観」を養うことができます。これが「次の」リスク評価・管理に取り組む際の疑似体験・訓練となります。
次回はレギュラトリーサイエンスの中でもかなり政策に近いところ、管理オプション評価(どんな対策をとれば世の中にどんな影響が出るのかの評価)について書きます。科学と政治シリーズの最後です(当初3回くらいで終わるはずだったのですが長くなりすいません)。
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