要約
「安全」と「安心」はセットで使われることが多いのですが、「安全と安心は違う!安全は科学的、安心は心理的なもの」という安全安心二分論も頻繁に見かけます。ただし実際には「安全」の中にも心理的な要素は含まれており、同じようで違っていて違うようで同じ概念と整理できます。
本文:安全と安心の違い再考
今回は安全と安心の違いについて書いてみたいと思います。
日本では何かにつけて「安全・安心の、、、」と銘打たれることが多くなっています。ここでは安全と安心はセットとされており、何か両者に違いがあるというよりは雰囲気的にセットで扱われているように見えます。
一方で、日本では安全安心二分論もよく見かけます。これを整理すると以下のようになります:
・安全は科学的・客観的に決められる
→科学者が判断
・安心は心理的・主観的なものである
→情報提供・教育によって向上
さてさて、本当にこういうとらえ方でよいのでしょうか?というのが本記事のテーマです。
安全とは「許容できないリスクがないこと」と定義されており、(1)リスクの大きさを評価する、(2)そのリスクが許容できないかどうかを決める、という二つのステップが必要になります。許容できるかどうかには心理的なものも当然ながら重要になるため、安全は科学的なもの・安心は心理的なもの、という安全・安心二分論は誤りなのです。詳細は過去記事をご覧ください。
さらに、リスク評価自体は科学をベースとした客観的なものではありますが、その中にも科学以外の価値判断も含まれているのです。これも過去記事で解説しました。
さらに、安心については「人々の科学的知識が欠けているからリスクが低くても不安に思うのだ。教育によって知識を与えれば不安が解消されて安心するはずだ」という思想のもとにリスクコミュニケーションに期待が集まりました。そして現在ではこのような説得的・教育的な取り組みがうまくいっていないのはよく知られるところとなりました。
本記事では、まず安全や安心の定義について辞書にどう書かれているかに注目してみます。次に「安全学」という学問分野では安全と安心の違いがどのように扱われているかを整理します。最後に私の考えとして、安全と安心は同じ定義で表現できるという新たな視点を示したいと思います。
辞書にも安全は「心配がないこと」などと書かれている、
最初に安全や安心の定義について辞書にどう書かれているかに注目してみます。古いものから新しいものまでいろいろな辞書で記載を調べた結果をまとめた論文があります。こんなことをやるって本当に面白いですね。
村上道夫 (2016) 明治時代以降の辞典における「安全」と「安心」の語釈. 日本リスク研究学会誌, 26, 141-149
いろいろな辞書の記載が比較されていますが、「安全」については心理的な要素を含む記載とそうではない記載の二つに大きく分けられます。
以下では「平穏無事なこと」、「心配がないこと」、「心を落ち着かせること」、「おそれ(=心配)のないこと」などと書かれており、心理的な要素が含まれていると記載されています。
日本国語新辞典第二版(2000-2002年)
①危険のないこと。平穏無事なこと。また,そのさま。
②傷ついたり,こわれたり,盗まれたりする心配がないこと。また,そのさま。
③(-する)心を落ち着かせること。気持を安らかにすること。
広辞苑第六版(2008年)
①安らかで危険のないこと。平穏無事。
②物事が損傷したり,危害を受けたりするおそれのないこと。
一方で以下では、リスクが低いことと記載されており、心理的要素は明示されていません。
三省堂国語辞典第七版(2014年) 自分または相手のからだや生命をおびやかすことのない状態。
それでは「安心」のほうはどうでしょうか?安心の定義は全ての辞典で「安らか」、「心配のない」、「心を落ち着かせる」、「安らぐ」などと記載されており、基本的に心理的要素で構成されていました。
この論文ではまとめとして、「安全」は「リスク,心理的要素,主観的なリスク認知,社会的合意を含む融合概念」だとしています。
安全学における「安心」は安全と信頼の掛け合わせ
続いて「安全学」という分野における安全と安心の違いについて見ていきましょう。安全学の提唱者は現在明治大学名誉教授の向殿政男氏です。以下の本などをベースに紹介していきます。
向殿、北條、清水 (2021) 安全四学―安全・安心・ウェルビーイングな社会の実現に向けて
安全は個別の分野(機械安全、製品安全、労働安全、交通安全、原子力安全、化学物質安全、医療安全、食品安全など)でそれぞれ独自に発展してきました。そのため、「安全」としての統一的な視点がこれまであまりなかったのです。
ところが、近年の安全問題は分野特異的というよりは分野融合的に発生しつつあり、統一的なアプローチが必要になってきました。各分野にまたがる基本的な哲学や理念、技術・人間・組織的アプローチなどを共有化したい、というのが安全学の動機になっています。
「安全」の定義としては、上記で紹介したように「許容できないリスクがないこと」となっています。さらに具体的には「安全目標(=許容可能なリスクレベル)をクリアすること」とされています。
安全目標は死者数をゼロにするとか、そういうことではありません。例えば発がん性物質であれば生涯発がんリスクを10万人に1人程度以下に抑えようというのが安全目標になります。道路交通の安全目標であれば、令和7年までに年間の(事故後)24時間死者数を2000人以下に抑えるという目標が設定されています。放射線なら年間1mSvの被ばく量以下にすることが目標となりますし、コロナウイルスであれば医療崩壊を防ぐというのが目標になります。
この安全目標は
・分野
・時代
・社会の価値観
・立場(利益を受ける側と被害を受ける側)
・個人か集団か
・自ら行うか、他人に強制されるか
によって変わりうるものです。そして、安全目標は透明性・合理性のもとで合意形成により決まってきます。
この辺の説明は本ブログの過去記事にもあります。
一方で「安心」は主として主観的なもので、判断する主体の価値観に依存するものとされています。「安全」と「安心」は分けて考えるべきではありますが、実際には連続した概念でもあります。安全目標の決定から主観は排除できませんが、客観性を重視する姿勢は貫くべきということです。
そして、「安心」は安全×信頼で構成され、安全が実現しており、かつ実現している人間や組織を信頼している状態であるとまとめられています。信頼のためには情報の公開と透明性の確保、さらにリスクコミュニケーションが重要とされています。
ただし、安全でなくても安心しているという状態も存在するため、「安心=安全×信頼」の式はそうであるべきという理想の姿を描いたものではないかと考えられます。
「安全」も「安心」も「許容できないリスクがないこと」と定義できる?
続いて最後に私が考える「安全」と「安心」の違いについて、新たな視点を書きたいと思います。ここまで書いたように「安全」にも心理的な要素が含まれており、「安全は科学的、安心は心理的」と区別できるようなものではなさそうです。
そこで、結局のところ「安全」も「安心」も「許容できないリスクがないこと」と同様に定義できるのではないか?と考えてみました。
ただし、「安全」は個人に適用するものというよりは国や地域などの集団・社会に適用するもので、その集団・社会において「何をもって許容できるとするか」という合意形成が必要になります。よって、その合意のためには科学的なリスク評価という共通の言語をベースにする必要があります(共通の言語がなければ合意形成はムリ)。
一方で、「安心」は個人的なものであり、「自分が許容できるか否か」ということで決まるため合意形成は必要なく、それゆえに科学という共通の言語をベースにする必要もありません(科学で考えても良いし、そうでなくても良い)。
このように整理するとすっきりまとまるのではないでしょうか?
つまりは
「安全・安心とセットで使われている」
→「安全と安心は違う!安全は科学、安心は心理」
→「安全の中にも心理的な要素は含まれる」
→「安全と安心の定義は同じ!」
というように、一周してまた安全安心がセットになってくる、というイメージです。安全安心のセットは集団も個人も両方大事にするという意味と解釈できるのではないでしょうか。
安全と安心は同じようで違っていて、また違うようで同じである概念とまとめられそうです。
まとめ:安全と安心の違い再考
「安全」と「安心」の違いについて、辞書の定義や安全学での扱いについて整理し、最後に自分の考え方をまとめました。安全は「許容できないリスクのないこと」と定義され、許容できるかどうかには心理的な要素もたくさん含まれています。ただし、「自分が許容できるかどうか」だけではなく、客観的にリスクが低いことや「何をもって許容できるとするか」という合意形成も必要になります。
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