要約
ワクチン接種における意思決定における科学の役割については、戦後GHQによる強制的な接種(科学の介入の余地なし)、意思決定の科学化(専門家の意見の取り入れ)、科学と政治の対立、科学から市民による意思決定へと変遷を遂げてきています。
本文
コロナウイルスのリスクガバナンスにおける科学と政治の関係についてはすでにいろいろな議論がありますが、数回に分けて書いてみたいと思います。
コロナウイルス対策では、世界各国でワクチンの開発が進んでおり、日本でも治験(実際に人間に使ってみて効果や副作用を調べるための臨床試験)が始まったとのニュースがあります。
日本でもじわじわと感染者が出ていますし、世界ではまだまだ収束の兆しは見えていません。コロナウイルスのワクチン開発はスピードが命ともいえます。一方で、これまでの歴史を見ても、ワクチンによる副作用(副反応という)がさまざまに報告されていますので、十分な安全性の審査が重要になります。これは、ワクチン普及と安全性のトレードオフになります。ワクチン接種を推進したことで副反応の被害が出てしまうことを「作為過誤(やったことによる失敗)」、逆にワクチン接種を推進しないことによりワクチンで防げたはずの感染症が広がってしまうことを「不作為過誤(やらなかったことによる失敗)」といいます。
感染症対策は科学的根拠に基づくことが重要です。ところが、新型コロナウイルスのように新しいウイルスでまだよくわかっていないことが多い場合には、科学的知見が不足しています。そして、まだわかっていないことを科学が明らかにするまで世の中は待ってくれません。なので、できるだけ科学的知見を活用しつつも最終的には政治・行政が決断を迫られることになります。これは私が専門とする化学物質のリスク評価・管理でもそうですが、ワクチン開発・承認でも同じですね。いろんな分野の科学と政治の関係を知っておくことは自分の専門分野に関しても有用だと思われます。そこで本記事では、ワクチンをめぐる科学と政治の関係を歴史的に見ていくこととします。
この点が非常によくまとまっている「戦後行政の構造とディレンマ 予防接種行政の変遷(手塚洋輔著)」という書籍を参考としました。ほぼこの本の要約になっています。かなり前に読んだ本ですが、コロナ禍以降に改めて読み返してみるとまた非常に面白かったです。
予防接種強制の時代
感染症対策行政の推進のため厚生労働省に設置されている研究所といえば国立感染症研究所です。もともとは1947年に、戦後日本の衛生状態悪化による感染症蔓延を危惧したGHQの意向によって「国立予防衛生研究所」として、東大の伝染病研究所の一部を移管する形で設置されました。このとき東大は猛反発して激しい対立が起こったそうです。
同時にGHQは種痘や腸チフスのワクチン接種を強力に推し進め、占領軍による強制接種状態だったようです。1948年にはこれまたGHQの意向で予防接種法が成立し、多数のワクチン接種が「義務化(罰則あり!)」されました。同年にジフテリア予防接種により68人の乳幼児が死亡するという前代未聞のワクチン禍が起こりました。ところが、基本的に製造業者が責任をかぶる形となり、社会がワクチン回避に大きく動くことはありませんでした。まだ科学が意思決定に絡む余地はこの時代にはなかったようですね。
専門家の判断を重視する意思決定の科学化
1950年代に入ると、BCGの有効性・副反応への疑念から賛成派・反対派の学者による論争が起こりました。当時の橋本厚生大臣(橋本龍太郎元首相の父)は国会の厚生委員会にて、問題があるなら専門家からその材料を出してほしいと述べています。
これは人によつて考え方は違うと思いますけれども、その後議論が出て来た間に、大体有益であるのならば、中に若干有害な場合があつても、強制していいのじやないかという考え方の人もあるようであります。私の考えでは、ほかの近代文明国においても大体そうでありますように、人体に影響を及ぼす問題は、たとい大多数の場合有益であつても、しかし絶対無害だということに割切れる段階になるまでの間、法律的強制は避けた方がいいのではないかということを考えているのであります。従つて、日本学術会議から今日なお調査研究を要する問題であるという進言を受けましたことを、きわめて重要に考え、非常にいろいろ心配しながら対処いたしているというのが現状でございます。
1951/10/22 第12回国会 衆議院
衆議院会議録情報 第012回国会 厚生委員会 第2号
https://kokkai.appri.me/content/19708
化学物質管理を考えると、1951年はまだ水俣病の公式認定前です。それを考えるとこの時代としてはなかなかすごい答弁だと思います。内容的にも全体的にまるで現代の審議会の議事録を読んでいるようでもあります。科学がだいぶ政治に入り込んできた過程が見て取れますね。
このように、感染症対策行政に科学的知見を取り入れることの重要性が高まり、1956年には厚生大臣の下に「伝染病予防調査会」が設置され、いわゆる専門家会議的なものの始まりとなりました。
そして翌1957年にいわゆる「アジアかぜ」と呼ばれる新型インフルエンザ(H2N2型)パンデミック(世界で約100万人が死亡)が発生し、調査会設置後初の大きな案件となりました。調査会にインフルエンザ部会、さらにその下に小委員会が設置され、対策はこれらの組織が主導することになりました。専門家の助言による意思決定支援の体制が整って現代に至ることになります。
科学と政治の対立、作為過誤と不作為過誤の対立
1960~1961年にかけてポリオが流行し、当時あった不活化ワクチンは量が不足していて、さらに効果もあまりよくありませんでした。一方でソ連で開発された生ワクチンは効果が高く、輸入の是非が議論されていました。生ワクチンの治験が開始された時にはポリオの感染は拡大する一方であり、早急に接種を進めるか安全性審査に時間をかけるかのジレンマが起こりました。
そして、薬事法で未承認の生ワクチンを「実験投与」と称して大規模に接種する政治案が出され、専門家会議(弱毒性ポリオウイルス研究協議会という表向き学者が自発的に組織した会議だが、実際は厚生省が予算化していた)の了承を経ずに進められようとしていました。賛否激しい対立の後で最終的に政治が決断し、1300万人分の生ワクチンが輸入され、大規模な「実験投与」の結果、ポリオの感染拡大は食い止められました。当時の古井厚生大臣は、一人でも副反応による犠牲者が出たら大臣を辞めようと思っていたそうです。
科学だけでは決められないことの問題(早急に接種を進めるか、安全性審査に時間をかけるか)においては、政治的な決断も必要になることが浮き彫りになってきました。意思決定に科学が参加する際に一番問題になることは、時間が限られていて十分に研究が進むまで世間が待ってくれない、というところへの対処になりますね。レギュラトリーサイエンスの登場はこのような問題意識が出発点になっています。
科学による決定から市民による決定へ
80年代以降、インフルエンザワクチンの有効性への疑義や、MMRワクチン(はしか、風疹、おたふく)による無菌性髄膜炎などの副反応の問題等が相次ぎ、不作為過誤よりも作為過誤の問題が注目されるようになります。さらに、専門家会議(的な組織)が科学的な議論を独占した時代から、さまざまな科学的言説が出てくるようになってきました。これは現代のSNS時代にも通じる流れですね。
そして、予防接種は義務付けから、保護者の同意が必要になる任意接種への流れが進んでいきます。また、予防接種の目的が社会的防衛から個人的防衛に重点が移っていきました。これは、作為過誤と不作為過誤のジレンマの中での意思決定を、行政の責任から保護者の責任へと移転したことを意味します。禁忌者(体質・体調的に予防接種を受けるべきではない人)の識別は接種する医師が判断し、責任も負うことになりました。こうして自己責任化が進んでいったのです。科学による決定から市民による決定へ、という流れともとれますね。こうした流れは現在まで続いているといえます。例えば日本ではHPVワクチンの接種率が低下して大きな問題となっています。
ところで、今回の新型コロナウイルスではワクチンの作為過誤と不作為過誤の対立はどうなるのでしょうか?今の時点では接種推進に社会全体が前のめりになっているように思えます。BCGがコロナに効くという話が出てきたときには、効果もまだよくわからないのに大人が接種可能かどうかの問い合わせが増えたそうです。専門家の役割がどうなるかも注目していきたいと思います。
まとめ
ワクチン接種における意思決定における科学の役割については、戦後GHQによる強制的な接種(科学の介入の余地なし)、専門家の意見を重視する科学化、科学と政治の対立、科学から市民による意思決定へと変遷を遂げてきています。科学的に不確実性がある中でのワクチン接種によるメリットとデメリットの対立にどう向き合うのか?という歴史にもなっていて大変興味深い事例です。
補足
リスクにまつわる歴史はそのままですが「リスク史」と呼ばれます。歴史というと古代や中世みたいなものを想像しがちですが、リスク評価や管理などはほぼ戦後の出来事になりますので、現代史の一部になります。
科学的な知見が不足している不確実性の中での意思決定は線引き問題にその特徴がよく現れます。本ブログでもいくつか記事を書いています。
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