要約
2012年に発生した水道水中ホルムアルデヒド基準値超過による大規模断水事故の事例を紹介します。幸いにして「化学物質による水域汚染->水道の断水->熱中症」の連鎖は起こりませんでしたが、真夏にこの事故が起こった場合は熱中症のリスクが化学物質によるリスクを上回ることが懸念されます。
本文:熱中症と化学物質のリスクトレードオフ
前回までの記事で、熱中症とコロナウイルスの死亡リスクを比較したり、「エアコン故障->熱中症」や「自然災害->停電->熱中症」などのマルチリスクについて調べたりしてきました。
ここまでで書ききれなかった「化学物質による水域汚染->水道の断水->熱中症」のことを今回の記事では書いていきます。まず2012年のホルムアルデヒドの基準値超過による断水事例を紹介し、次にホルムアルデヒドの基準値の根拠を説明し、最後に熱中症と化学物質によるリスクトレードオフから基準値超過による断水は必要かどうかについて考えます。
ホルムアルデヒドの基準値超過による水道の断水
2012年の5月に利根川水系の複数の浄水場にてホルムアルデヒドの濃度(最大で0.168mg/L)が水道水質基準(0.08mg/L)を超過し、千葉県内で36万戸にわたる断水が発生するという大きな水質事故が発生しました。
この原因物質はヘキサメチレンテトラミンという物質でした。この物質を含む産業廃水の処理を委託された業者が十分な処理をせずに放流し、それが浄水場にて塩素消毒をした際に塩素と反応してホルムアルデヒドが生成したのです。消毒副生成物が原因となった複雑な事例です。
このとき、各地の給水所に行列ができ、2時間待ちのような状況もあったということです。幸いにして5月の事故であったことや、断水が最大でも19時間程度であったこと、平日ではなかったことなどの理由により、熱中症の発生などもなく大きな混乱は免れました。ただ、水道水を多量に必要とする人工透析施設において患者の移送が行われたようです。
このような事故の経緯や影響は以下の論文によくまとまっています。
金見 (2013) 利根川水系ホルムアルデヒド水質事故の概要と提起された課題. リスク研究学会誌 23, 57-64
ホルムアルデヒドの基準値の根拠
続いてホルムアルデヒドの基準値の根拠を説明します。水道水質基準は51項目設定されており、そのうちの31項目が健康に関するもので、残り20項目が水道水としての性質(色、味、においなど安全性とは別なもの)に関するものです。設定根拠はすべて厚生労働省のWEBサイトで公開されています。
基準値の設定方法の基本的な考え方は以前PFOSの基準値の根拠についての記事でも説明しました。また、ざっくりとした説明は「ニュース農業と環境」の記事をご覧ください。
ニュース農業と環境 リスクって何?安全って何? https://www.naro.affrc.go.jp/publicity_report/publication/files/no113_3.pdf
ホルムアルデヒドの基準値はラットを使った動物実験の結果から決まっています(https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/suido/kijun/dl/k30.pdf)。対象実験区(化学物質を全く与えない実験区)と統計的に有意差の出ない摂取量は15 mg/kg 体重/dayとなり、これが無影響量(NOAEL)となりました。このNOAELを不確実係数(UF)で除して耐容一日摂取量(TDI)を求めます。UFは以下のように、まず一般的な種差と個人差で10ずつを適用し、さらにホルムアルデヒドが揮発性を持っておりシャワーなどで吸い込む可能性を考慮して追加の10が適用されました。
UF 1000 = 種差 10 × 個人差 10 × 揮発性を考慮した追加の10
そして、体重50kgの人が一日2Lの水を飲むと仮定してNOAELを上回らないような水道水中濃度を計算します:
0.015(mg/kg/day) × 50(kg) ×0.2 / 2(L/day) = 0.075 mg/L
これを図で示すと以下のようになります。水中濃度と摂取量の2軸の線を引いてそれぞれ換算しているわけです。
さて、この追加のUF10というところが曲者でした。実際にはそれほど揮発しやすいということもなく、WHOの飲料水水質ガイドライン(第3版)ではこの追加のUF10は適用されておらず、基準値(ガイドライン値)は0.9mg/Lとなっています。さらに、ガイドラインの第4版では、そもそも水道水中のホルムアルデヒドは健康を害する可能性が低いことから、基準値を設定する必要がないとされました。
もしもこの追加のUF10がなければ日本の基準値も0.8mg/Lとなり、最大0.168mg/Lのホルムアルデヒドは基準値超えにならず、断水する必要もありませんでした。
断水すべきかどうか、そこが問題だ
もしも35℃を超えるような酷暑の日に断水が起きて給水に行列ができたとすると、千葉県5市の高齢者数は約22万人のうち、6名程度が熱中症を発症し、そのうち1名程度が死亡するというリスクの試算結果があります。10万人あたり死者数にすると0.4人となります。
井上知也 (2013) 化学物質による人健康リスクと熱中症リスクのトレードオフ―利根川水系ホルムアルデヒド水質事故から考える化学物質管理のあり方― 日本リスク研究学会第26 回年次大会講演論文集
一方で、PFOSのリスクの計算と同様にホルムアルデヒドの基準値を超過した水を飲んだ場合のリスクを計算してみます。
基準値(0.08mg/L)を超過した0.168mg/Lのホルムアルデヒドを含んだ水を、体重50kgの人が2L飲み続けた場合の曝露量は
0.168mg/L×2L/50kg = 0.0067mg/kg/day
となります。
NOAELは15mg/kg/dayでしたので曝露マージン(MOE)は
15/0.0067 = 2239
となります。これを図で示すと以下のようになります。今度は下の軸から上の軸へ逆算します。
PFOSのときと同様に、NOAELの影響率を5%と仮定して、ざっくりと比例計算すれば
0.05/2239 = 0.000022 = 2.2×10-5
となり、10万人あたり2.2人の影響となります。ただし、ここで行った比例計算は発がんリスクの計算で使用する考え方ですが、かなり過大評価することになります。しかも、このときの影響は体重の減少や胃粘膜の異常などであって死亡ではありません。さらに、これはずっと飲み続けた場合の影響であり、1日程度飲んだ場合の影響ではありません。よって、1日程度であればほぼ無視できるリスクとなるでしょう。つまり真夏であれば熱中症のリスクのほうが高くなることが考えられます。
このように、水道水の基準値超過が起こった際に直ちに断水するかどうかは、化学物質によるリスクの大きさや気温などそのときの状況によって判断がわかれることになります。ただし、上記のリスク比較はあくまで後知恵によるものですから、事故が発生した当時に原因もよくわからずいつまで汚染が続くかもわからない状況で、急いでリスクトレードオフを判断するのは非常に難しいといえます。
まとめ:熱中症と化学物質のリスクトレードオフ
2012年に発生した水道水中ホルムアルデヒド基準値超過による水質事故の事例を紹介しました。基準値は0.08mg/Lで、超過濃度は最大で0.168mg/Lでした。幸いにして「化学物質による水域汚染->水道の断水->熱中症」の連鎖は起こりませんでしたが、真夏にこの事故が起こった場合は熱中症のリスクが化学物質によるリスクを上回ることが懸念されます。
補足
拙著「基準値のからくり」の3章では水道水質基準値のさまざまな根拠について解説しています。ホルムアルデヒドについても書かれています。
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