要約
人の記憶は結果がわかってから「最初からそうだと思っていた」というように都合よく置き換わるバイアスがあります。なので、コロナ対策のように不確実な状況での決定をたまたま成功しても失敗しても必然的に(能力が高い/低いから)そうなった、という評価をしてしまいがちです。
本文
日本の新型コロナウイルス対策では、欧米諸国に比べ人口当たりの死者数が低くに抑えられていることから成功ではないかとの声が出るようになってきました。
上記の記事のように、これは日本の政府や社会の対策がすごく良かったからというわけではないと思いますが、ともあれ死者数という意味では成功になっています。私の過去の記事でも、国内死者数7000人程度以内で抑え込めればかなりマシな方なのではと書きました(2020年4月8日公開 https://nagaitakashi.net/blog/risk-comparison/corona-2/)。正直一万を超えるだろうと思っていたからです。2020年6月7日時点で死者数916人と、7000人より一桁程度少ないです。結果さえよかったのだからそれでいいのだ、という人も多いと思います。さらには「俺は最初からこうなることを知っていた」などと言い出す人も出てきます。緊急事態宣言は不要だった、と今になって言い出すのがその典型ですね。本記事ではこの「結果」をどう考えたらよいのかについて書いてみます。
コロナ対策における「二つのリスク」
日本の対策を評価するなら、ようするに日本はあまりリスクを取らなかった、と言えるかと思います。これはコロナウイルスのリスクを下げるように最大限対応した、という意味ではありません。スウェーデンやブラジルのように経済を優先して強力な対応を取らなかった国、台湾やニュージーランドのように徹底的に封じた国、どちらも「リスクをとって思い切った対策をした」国になります。もし結局のところ新型コロナウイルスが2009年のインフルエンザH1N1のように「たいしたことない」ウイルスであったなら、スウェーデンやブラジルは先見の明で世界から称賛されていて、台湾やニュージーランドは臆病な国として叩かれていたでしょう。今回「成功」とされている台湾やニュージーランドも先見の明があったというよりは、島国なので封じ込めが可能という地理的状況とたまたま思い切った対策が当たった、という風に考えた方が良いかと思います。そして日本は良くも悪くも思い切った対策をせずに大勝ちも大負けもしない方向に進んだ(調整が困難で思い切った対策を選択できなかった)と考えるべきではないでしょうか。
思い切ったリスク管理には、大勝ちするか大負けするか極端な結果を招く「リスク」があります。ここでのリスクの意味は二つあります。一つはリスクをもたらす対象が引き起こすリスク(コロナウイルスによる死者など)で基本的にマイナス方向の大きさしか持ちません。もう一つはリスク管理対策がもつリスクであり、イチかバチかの対策を打てば、経済影響もコロナのリスクも抑えて大勝ちするか、経済影響かコロナのリスクにより大打撃を受けるか、極端な結果を招く可能性、つまりマイナスにもプラスにも働くものになります。大勝ちするには大負けするリスクを背負う必要があります。ハイリスクハイリターンですね。
もし対策が肩透かしになっていたらどうなっていたか?
1976年のアメリカ軍基地内で流行したインフルエンザH1N1の例を取り上げてみます。H1N1は1918年に発生したスペイン風邪(世界で数千万人が死亡)と同タイプで、今回のコロナウイルスと同様に流行開始時には被害予測が困難でしたが、当時のフォード政権は100万人のアメリカ人が死亡すると予測しました。フォード大統領は「金か人命かが問われている」として1億8000万ドルの予算で2億人にワクチンを摂種する計画を発表しました。
しかし、時がたっても軍基地外でのH1N1の流行は認められず、死者もたった1人という状況でした。アメリカ以外で思い切った対策をとった国はありませんでした。ところがフォード政権は恐怖をあおる発表を続け、ワクチン接種を推し進めました。その後、ワクチン接種者においてギランバレー症候群の発症率が10倍になったということが明らかとなりました。ワクチンが原因かどうかの因果関係は不明でしたが、十分な安全性審査をせずに新型のワクチンを急いで承認したことが批判されました。まさにから騒ぎに終わったのです。さらにその後インフルエンザワクチンを接種する人が大幅に減ってしまったというおまけまでついてしまいました。
「リスク」をとった大胆な対策が大失策とみなされたのです。こうなると「俺は最初からたいしたことないと知っていた」論者が後から湧いて出てくるものです。もしこれが本当にスペイン風邪レベルの強力なウイルスであったら逆に大成功とみなされてフォード大統領は英雄扱いされていたかもしれません。その時には「俺は最初からヤバイウイルスだと知っていた」論者が後から湧いて出てきます。
なぜ「俺は最初から知っていた」という人が後から湧き出てくるのか
たまたま起こった成功事例は「たまたま」の部分が抜け落ちて必然的に成功した、と認知したがる傾向があります。なぜ成功したかの因果関係は後付けです(どうせ検証のしようがないので)。これは我々にとってとても心地よいストーリー性があるからです。そして後付けの因果関係を見てこうすれば成功する、という根拠薄弱な自信がついてしまいます。
過去に行った将来予測が当たっていたならば「俺は最初から知っていた(予測が当たった)」と言いたくなるのもわかりますが、実はそういう人ほど事実を知ってから過去の予測を書き換えている場合が多いです。これを「私はずっと知っていた(I knew it would happen)効果」(後知恵バイアスとも呼ばれる)と呼びます。
ここで、リスク心理学の大御所であるフィッシュホフ氏が行った実験(かなり古い!)を紹介します。1972年にアメリカのニクソン大統領が中国・ソ連を訪問しましたが、事前に訪問の結果予測される15項目について、それが起こる確率をそれぞれ推定するというものです。大統領の帰国後に同じ被検者に15項目の確率(訪問前に書いた数字)について再度思い出して書いてもらったところ、実際に起きたことは確率が事前の数字よりも高まり、起きなかったことについては確率を事前の数字よりも少なめに書かれていたのです。記憶が都合よく書き換えられているのですね。
「結果」にこだわらないほうがいい理由
リスク管理においては、感染拡大初期の非常に不確実な状況(ウイルスの性質、感染拡大の仕方、症状の性質、治療法)において、取るべき対策を決めなければいけません。その時に将来どうなるかははっきりいってよくわからないわけです。その中でも限られた情報を最大限活用して、不確実なところ推定などで埋めながら判断を迫られます。リスク管理の考え方ではここの意思決定のプロセスが重要であって、結果が当たるかどうかは重要でないとは言いませんがそれがすべてではないのです。
「私はずっと知っていた効果」を放置していると、リスク管理対策を決定するプロセスではなく結果のみを重視する傾向が強まります。対策を決めた時点では不確実だったはずなのに、いざ対策が成功すれば「あのときから成功すると思っていた」と先見の明を過大評価するようになり、対策が失敗すれば「あのときから失敗するすると思っていた」とその能力を過小評価することになります。そうなると意思決定の責任をとるリスクが高まり、重要な決定ができなくなります。
また、大博打を打ってたまたま大成功した人を「運が良かった人」ではなく「能力が高い人」と称賛するようになります。大胆な政策でたまたま当たったひと、株でたまたま大勝ちして億万長者になったひと、会社を立ち上げてたまたま大成功したひと、などです。そういう人たちの自伝的なものをありがたがって読んで、こうすれば成功すると間違った解釈をしてしまいます。それは単にリスクのある行動を取っただけであり(本当はそこが重要なのですが)、同じことをやったとしても大成功する人と大失敗する人に分かれます。そして、大失敗した人は表舞台から消えるので見えなくなるだけなのです。これは「生存者バイアス」と呼ばれる現象ですね。
まとめ
今回の新型コロナウイルスのような、新しいリスクが発生した最初の段階の不確実な状況での意思決定は、結果だけではなくそのプロセスを重視すべきです。人は結果がわかってから「最初からそうだと思っていた」というように記憶が置き換わるバイアスに陥りがちなので、たまたま成功しても失敗しても必然的にそうなった、という評価をしがちです。
補足
本記事ではリスクの二つの意味を書きましたが、本ブログのタイトル「リスクと共により良く生きるための基礎知識」中の「リスク」は、マイナスにもプラスにも働くもの、大勝ちするには大負けするリスクを背負う必要がある、というほうのリスクを意味しています。現代社会をよりよく生きるにはある程度リスクを背負う必要があると考えています。リスクマネジメントの分野でも「オペレーショナルリスク(マイナスの方向しかないもの)」や「戦略リスク(プラスとマイナス両方に働くもの)」というように二つのリスクを分けて考えます。そのような考え方についてもそのうち書いてみたいです。
1976年のアメリカのインフルエンザ空騒ぎは「シグナルアンドノイズ」という本
そしてフィッシュホフの実験については「ファスト&スロー」という本から題材を得ました
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