要約
ソーシャルディスタンス対策として、スーパーのレジ前などの足跡マークなどはすでに日常的な光景となっています。これは強制ではなく行動科学の知見を使ってそっと後押しする手法「ナッジ」を活用したものです。
本文:ソーシャルディスタンスとナッジ
前回の記事に引き続いてソーシャルディスタンスをテーマにします。前回は科学的根拠について書きました。
根拠はわかっても、実際にソーシャルディスタンスをどうやって達成するかについて困っている人がたくさんいるのではないかと思います。お願いをするときにもいろいろと気を使います。海外ではマスクをしろなどとお願いしたところ殺されるなどの被害もあるようです。
一方日本では、「自粛警察」や「マスク警察」が話題になったように、厳しい相互監視によって右にならえの圧力の強い社会です。ソーシャルディスタンスも今後「ソーシャルディスタンス警察」が出てきかねません。海外では本当に「ソーシャルディスタンス警察」がいて、本物の警官が暴力をふるったり逮捕したりします。
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さて、相互監視による圧力か国家権力による強制か、もしくは経済的インセンティブか、どれが良いのでしょうか?他方、コロナウイルス対策では「ナッジ」の活用も進んでおり、ソーシャルディスタンスについても、スーパーなどのレジ前に1mおきに並ぶ足跡も見慣れた光景となりました。本記事ではソーシャルディスタンスにおけるナッジについて書いてみます。
ナッジ理論
ナッジとは「そっとひじでつつく」というような意味で、規制などの強制ではなくゆるく行動を導く仕組みのことです。ナッジの生みの親であるシカゴ大教授のリチャード・セイラーは2017年のノーベル経済学賞を受賞しています。レジ前に1mおきに並ぶ足跡を見ると、特に強制されたわけでもないのにみんなが自然に足跡のところに並び、結果的にソーシャルディスタンスが保たれるわけです。
世界にはいろんなアイディアがありますね。ナッジを活用したものもあります。しかもいわゆるインスタ映え的なのが多いですね。
どうすれば2メートルを保てる? 世界のユニークな「ソーシャル・ディスタンス」のアイディア。
特にテーブルシールド「PLEX’EAT」はデザインもよくていいですね。飲食中はどうしてもマスクを外すので飛沫を防ぐいいモノはないのかなとずっと思っていました。
いかに美しく、ソーシャルディスタンスを確保するか? テーブルシールド「PLEX’EAT」
これはドアノブの画像が面白いです。ドアノブにバイ菌のような絵をたくさん描いておくと、触った後に手を洗いたくなる仕掛けです。
また、デフォルトを変えるのもナッジの代表的な手法の一つです。例えば感染拡大防止策としての在宅勤務を考えてみます。通常はデフォルトが出社であり、在宅勤務をするには面倒な手続きが必要です。それを、何も手続きをしなければデフォルトとして在宅勤務が適用され、家に仕事スペースがないなどで都合が悪い人は手続きをして出社にする、と制度を変更すればよいのです。これで本人の自由な選択の余地を残しつつ、現状維持バイアスを解消しておそらくは在宅勤務の割合を高められると思われます。
ナッジの起源はリバタリアンとパターナリズムの論争
私的な自由を尊重する立場がリバタリアンです。例えばコロナに関して感染防止対策をしていないような店舗は、皆が行かなくなるのでそのうち破綻してしまうから、規制で縛る必要はなく自由経済に任せれば勝手に最適化される、という考え方です。逆に、人は放っておくと何をするかわからないから規制によって人々を正しい方向へ向かわせなければいけない、という立場がパターナリズムです。感染防止対策をしていない店舗は国が強制的に休業させろ、という考え方です。
米国などは自由の国ですから規制による経済への介入を嫌う傾向がありますし、日本人は国が決めてくれないと何も動けない(箸の上げ下ろしまで国に指示されたがると揶揄される)という傾向を持っています。
(ロックダウンのように、実際の規制の強さを見るとイメージとは逆に日本よりも米国のほうが強い部分が多かったりするところが面白いのですが。。)
この二つの考え方の論争から生まれてきたのがリバタリアン・パターナリズムであり、自由な選択の余地を残しつつも正しい方向へそっと導く、という両者が受け入れられる考え方なわけです。この実践に「ナッジ」というキャッチーなネーミングをしたことで社会に広がったのですが、そもそもどこから生まれてきたかを忘れないように注意が必要です。強要されている(パターナリズム)と感じるようではナッジは失敗であり、特定の方向へ導かれていると本人にも意識させないことが重要なのです。
ナッジは押しつけがましい?
日本ではそもそもリバタリアンvsパターナリズムみたいな論争がないので、この辺はイメージしにくいかもしれません。ただし、ここがわかっていないと「ヘン」なナッジが出てきてしまいます。ナッジは押しつけがましいパターナリズムへの批判から生まれてきた手法ですので、そもそもナッジが押しつけがましいというのは「ヘン」なのです。押しつけがましいと思われたらそれはナッジとして失敗でしょう。
つくば市のコロナ対策におけるナッジの事例を見てみましょう。つくば市では市役所入り口での手指消毒を推進するために、どの方策が効果があるのか実験し、設置場所を変えただけで消毒実施率が4.7倍に、警備員の声かけで7.5倍になる効果があったと発表しています。
ただ、入り口で警備員に消毒をお願いされたらさすがに断れません。これをナッジと呼ぶのはさすがに拡大解釈しすぎではないかと思います。
日本はロックダウン(移動や外出の禁止)をせずに自粛の要請(強制ではない)のみでコロナ感染拡大を(少なくとも1回は)抑えました。自粛の要請は日本の社会の特性を考えるとナッジと呼ぶには無理があるでしょう。
別の視点で考えてみると、ナッジが一般的になるとナッジに皆が気づきやすくなります。「ああ、これはナッジだな、この意図はこういうことだな」と気づくことが日常茶飯事になると、気分的に押しつけがましさが増してくるかもしれません。ソーシャルディスタンスにしても、日常的にどこへ行っても足跡や注意書きなどで距離を取ることを求められるとだんだんうんざりしてくる人もいるでしょうね。
まとめ:ソーシャルディスタンスとナッジ
行動科学の知見を使って強制ではなくそっと後押しする「ナッジ」はすでにわれわれの日常にすでに取り入れられており、コロナウイルス対策でも同様です。ソーシャルディスタンスの達成についても足跡マークなどがすでに日常的な光景となりました。ナッジのもともとの出発点を忘れて「押しつけがましい」ナッジにならないように注意が必要です。
補足
化学物質などのリスク管理においてもナッジは注目されています。ナッジをセイラーと共に生み出したキャス・サンスティーンはリスク分野の法学者であるからです。サンスティーン自身は科学的なリスク評価に基づいて規制を決めるべきというゴリゴリのパターナリズムの人ですが、やはりそれを実際に貫くのは難しく、妥協案としてリバタリアン・パターナリズムにたどりついたのではないかと思います。
ナッジで消毒といえば最もスゴイと思う事例がこれですね。一見するとローマの観光名所「真実の口」のようですが、口に手を入れると消毒液が吹き出されて消毒してくれます。
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つくば市のナッジの事例を否定的に取り上げてしまいましたが、ちゃんと実験をしてどの対策に効果があるかを検証して、それを公開しているEBPMな取り組みは大変すばらしいと思います。(ただナッジという言葉を使わないほうが。。)
私はいつもブログの原稿を書いた後にEnnoというサイト(https://enno.jp/)で文章チェックするのですが、「自粛の要請」という部分で
【純粋エラー】「自粛」と「要請」は両立しない言葉です。「自粛」は自ら行うものであり、「要請」は相手に強く求めるものです。
と指摘されてウケました。全くその通りです。この文章チェックサイトは本当に賢いです。でも、これぞ本当の日本流リバタリアン(自粛)・パターナリズム(要請)なのかもしれません。
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