過労死ラインの基準値のからくり:労働時間ではなく睡眠時間から決まった基準値

overwork 基準値問題

要約

過労死ラインと呼ばれる労災の認定基準について、一か月の時間外労働45, 80, 100時間という基準値があります。睡眠時間の不足(一日6時間未満)が健康に影響をもたらすという科学的知見から、月に100時間残業すると平均5時間の睡眠しかとれず、80時間では6時間の睡眠、45時間では最も健康的とされる7-8時間の睡眠をとることができるという計算が根拠となりました。

本文:過労死ラインの基準値のからくり

安倍晋三首相の辞任表明に関して、病気の自己責任論と差別の関係を前回記事にしました。

コロナに感染したのは自己責任だから謝罪して当然か?自己責任と差別・誹謗中傷の関係
安倍首相が病気を理由に辞任を表明しましたが、病気を揶揄する声も上がっており、これの「病気になるのは自己責任」という考え方はコロナウイルス感染者への差別や誹謗中傷と根本が同じです。感染対策をとっているかどうかも集団としての感染確率が高いか低いかの問題でしかなく、感染したという結果を個人の責任に帰するべきではないでしょう。

安倍首相の病気の再発はコロナウイルス対応で心身にストレスがかかったことが原因ともいわれており、現実にコロナ対応では1~6月までに147日間の連続勤務を行ったとされています。

ここで、首相動静から首相の勤務日数・勤務時間を2019年と2020年で比較した記事があります。(こういうデータのまとめは本当に敬服します)

「連続勤務147日」は安倍首相の体調不良を引き起こしたのか?
8月28日、安倍晋三総理が、健康問題を理由に、辞任することを突然明らかにした。7月中旬頃からの体調不良が、政権の継続を難しくした形だ。その過程で麻生太郎副総理は「連続勤務日数147日」が原因であるかのような発言があった。連続勤務147日とは実際はどのようなものだったのか、日数だけ...

2019年1~6月の安倍総理の勤務時間
平日平均勤務時間 約12時間42分 104日
休祝日平均勤務時間 約6時間12分 24日
総勤務時間 約1470時間 128日
休日 32日
外国訪問 15日

2020年1~6月の安倍総理の勤務時間
平日平均勤務時間 約11時間28分 117日
休祝日平均勤務時間 約3時間16分 51日
総勤務時間 約1508時間 168日
休日 3日
外国訪問 5日

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00067/082800036/

2020年は勤務時間としては38時間増加とそれほどでもありませんが、休日勤務は30日も増加しています。通常の労働者の勤務時間を8時間/日×21日/月×6月=1008時間とみなすと、1.5倍くらいの勤務時間になります。1日あたりにすれば平均4時間程度残業していることになるでしょう。平均超過勤務4時間/日は「発症前2~6ヵ月間平均で80時間」という過労死ラインの目安を超えてきます。勤務時間だけを見ても過労死ラインにあることに加えて、コロナ禍での緊張状態が重なれば「普通だったらおかしくなる(麻生副総理談)」ことは容易に想像できます。

首相が過労死ライン状態でずっと働いていることはリスクマネジメント的な問題があります。一人のトップに負荷がかかりすぎないような体制作りは検討される余地があるでしょう。

さて、ここで「発症前2~6ヵ月間平均で80時間」という過労死ラインが出てきましたが、この基準はいったいどこから生まれた数字なのでしょうか?基準値オタクとしてはこういう安全にまつわる数字の根拠を知りたくなります。そこで本記事では、過労死の基準値について調べていきたいと思います。

過労死ラインの根拠

いわゆる過労死ラインといわれている労災の認定基準について、月の超過勤務が45, 80, 100時間という「基準値」があります。

脳・心臓疾患の認定基準の改正について

厚生労働省 平成13年12月12日 脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。)の認定基準について

 疲労の蓄積をもたらす最も重要な要因と考えられる労働時間に着目すると、その時間が長いほど、業務の過重性が増すところであり、具体的には、発症日を起点とした1か月単位の連続した期間をみて、① 発症前1か月間ないし6か月間にわたって、1か月当たりおおむね45時間を超える時間外労働が認められない場合は、業務と発症との関連性が弱いが、おおむね45時間を超えて時間外労働時間が長くなるほど、業務と発症との関連性が徐々に強まると評価できること② 発症前1か月間におおむね100時間又は発症前2か月間ないし6か月間にわたって、1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働が認められる場合は、業務と発症との関連性が強いと評価できることを踏まえて判断すること。ここでいう時間外労働時間数は、1週間当たり40時間を超えて労働した時間数である。
 また、休日のない連続勤務が長く続くほど業務と発症との関連性をより強めるものであり、逆に、休日が十分確保されている場合は、疲労は回復ないし回復傾向を示すものである。

https://www.mhlw.go.jp/houdou/0112/h1212-1.html

これは「脳・心臓疾患の認定基準に関する専門検討会」の検討結果を踏まえて決められた数字です。ではこの検討会ではどんなことが根拠とされたのでしょうか?以下の議事録からその根拠を見ることができます。

2004年4月28日第1回「過重労働・メンタルヘルス対策の在り方に関する検討会」議事録 

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2004/04/txt/s0428-4.txt

○中嶋委員
 今回の検討会議と直接関係するとは思いませんが、主任中央衛生専門官からお話のあった、平成13年の脳血管疾患及び虚血性心疾患等の認定基準の改定で、労働時間が月当たり45時間の法定労働時間内ならば、いわゆる過労死との関係は問題ないと。発症前1か月間の100時間を超える、発症前2か月ないし6か月間にわたって1か月当たり80時間を超えると、この労働時間が出てきたお蔭で、認定もしやすくなりましたし、医学的知見と融合してこういうことをなさったと思います。差し支えなければ、この労働時間数は、いつどういうメドで導かれたものかをお伺いしたいのです。

○和田座長
 その件につきましては私が関係しましたのでご説明させていただきます。1つは、すべて医学的な文献に基づいたということです。長期間の労働に関していちばん問題になるのは、やはり労働時間による疲労の蓄積です。逆に言いますと、ただ労働時間だけでは把握できないような、基本には睡眠時間がいちばん関係するだろうということです。 いろいろな文献、疫学調査があり、6時間以上睡眠をとっている場合には、虚血性心疾患とか脳血管障害のリスクは、有意な増加は示しておりません。主な文献、きちんとした疫学調査が大体6つか7つあったのですが、それによると脳・心臓血管障害が増えるのは大体6時間未満の睡眠です。最近2つほど新しい論文が出ており、睡眠5時間未満の場合に、そういった血管障害が増加するという。それが共通した事項になるということで、結論とされており、それを採用したわけです。
 1日の普通の労働者の生活時間から割り出して、1日に睡眠時間が5時間ということは、結局、1日に5時間の時間外労働ができると計算されたわけです。それが基本になり、そして1日の時間外労働に対して、大体20を掛けると月の時間外労働時間が出てくるわけです。したがいまして、5×20=100が基本になったわけです。疫学調査では月100時間以上の時間外労働がリスクになるということです。睡眠時間5時間が100時間に相当します。それを下回ると、すなわち時間外労働が上回ると睡眠時間が低くなるわけですが、そうすると、心筋梗塞が増えることが医学的に証明されたと考えたわけです。80時間というのは、睡眠時間が6時間、そして残業が1日の4時間に相当するわけです。そうすると4時間×20=80時間という一応の線を出したわけです。
 実際は、文献的にはそれ以下の場合で、有意の増加を示したという報告は全くありませんでした。一般に、1日の睡眠時間が7-8時間が普通であろう。7時間から8時間の睡眠が最も健康的であるとされているわけです。それは1日の時間外労働は2時間、 ないしは2.5時間に相当します。それに20を掛けると大体45時間になり、人間としていちばん健康的な生活が営まれる。その時間においては、過労死は全く発生していなかったということです。それで45、80、100という数字が出てきたわけです。

労働時間というよりも睡眠時間の不足(一日6時間未満)が健康に影響をもたらします。月に100時間残業すると5時間の睡眠しかとれず、80時間では6時間の睡眠、45時間では最も健康的とされる7-8時間の睡眠をとることができるという計算が根拠となりました。

「俺は月100時間残業しても平気」という人がいるので、その程度で体調を崩すのは情けないのか?

「月100時間残業しても平気」という人はおそらくたくさんいるだろうと思います。現に霞が関のキャリア公務員などはそういうめちゃくちゃな働き方をする人がたくさんいます。しかし、「俺が平気だからみんなも平気だろう」とまで考えると一気に危険な考え方になります。

化学物質の安全基準は、対照区(当該化学物質の曝露がない)と統計的な有意差が出ない量、もしくは影響率が5-10%程度の量で線引きをし、さらにさまざまな安全係数をかけて基準値とするのが一般的です。そうなると「月100時間残業しても平気」という人がたとえ50%程度いたとしても、50%の人は平気だけど残り50%の人は体調を崩すというような線引きはもう全くあり得ないわけです。個人差がある中で感受性の高い(体調を崩しやすい)人を守るような基準値を考える必要があります。

また、私のような研究者・大学教員などは裁量労働制をとっているので、残業という意識がなくいつまでも働く人が多いですね。「好きでやっているのだから何が悪い」という考えの人も多いです。自分の意志でやっているのでストレスもかかりにくいというわけです。研究の世界も競争が激しい世界です。ある程度の競争は必要だとは思いますが、どれだけ寝ないかの競争になってはいけません。安全を担保する一定のルールの中で競争するべきでしょう。

それから朝から晩まで週末も研究に熱中している間、家事や育児はいったい誰がやっているのでしょう?そういう働き方が当然という社会が女性の社会進出の壁になっていることも忘れてはいけません。この辺は過労死の問題というよりもワーク・ライフバランスの問題になりますね。

今回の記事は日本のトップである首相辞任のニュースにかこつけて書いていますが、トップが休まないとみんな休めないので、トップは積極的に休みをとってほしいと思います。政治家つながりでは小泉環境相の育休取得なども良い傾向ではないでしょうか。

最近の労働時間に関する議論の状況

日本ではこれまで36協定を結ぶことにより、実質的な労働時間の上限がなかったことが問題でした。そして、下記の報告書によると勤務問題が原因・動機の一つと推定される自殺者数は2015年で2159人にも上るようです。

日本学術会議 2017年9月25日 労働時間の規制の在り方に関する報告 http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-h170925.pdf

そして、2019年から新しい労働時間の上限規制が始まりました。

時間外労働の上限規制 わかりやすい解説(2019年4月施行)https://www.mhlw.go.jp/content/000463185.pdf

* 時間外労働(休日労働は含まず)の上限は、原則として、月45時間・年360時間となり、臨時的な特別の事情がなければ、これを超えることはできなくなります。
* 臨時的な特別の事情があって労使が合意する場合でも、
・時間外労働 ・・・年720時間以内
・時間外労働+休日労働 ・・・月100時間未満、2~6か月平均80時間以内
とする必要があります。
* 原則である月45時間を超えることができるのは、年6か月までです。
* 法違反の有無は「所定外労働時間」ではなく、「法定外労働時間」の超過時間で判断されます。
* 大企業への施行は2019年4月ですが、中小企業への適用は1年猶予され2020年4月となります。

https://www.mhlw.go.jp/content/000463185.pdf

これは時間外労働45, 80, 100時間/月という過労死ラインの数字がベースとなっており、ワーク・ライフバランスの改善まで踏み込んだ規制にはなっていません。

一方で、平成13年に45,80,100時間という過労死ラインの基準が出てきましたが、20年近く経過しているので厚生労働省は改めて科学的知見を整理しなおしています。

脳・心臓疾患の労災認定の基準に関する専門検討会

脳・心臓疾患の労災認定の基準に関する専門検討会
厚生労働省の脳・心臓疾患の労災認定の基準に関する専門検討会を掲載しています。

労働と脳・心臓疾患の関係に関するシステマティックレビューの報告書も掲載されています。
https://www.mhlw.go.jp/content/11201000/000650622.pdf
https://www.mhlw.go.jp/content/11201000/000650623.pdf

新たな知見の整理を踏まえて過労死ラインが変わるのかどうかが注目されます。さらに昨今の副業ブームにより、複数業務(本業と副業の合算)によって過労死ラインを超過した場合の労災認定のあり方も議論されています。

まとめ:過労死ラインの基準値のからくり

過労死ラインと呼ばれる労災の認定基準について、一か月の時間外労働45, 80, 100時間という基準値があります。労働時間というよりも睡眠時間の不足(一日6時間未満)が健康に影響をもたらすという科学的知見から、月に100時間残業すると5時間の睡眠しかとれず、80時間では6時間の睡眠、45時間では最も健康的とされる7-8時間の睡眠をとることができるという計算が根拠となりました。先日病気の悪化により辞任を表明した安倍首相はずっと時間外労働80時間/月相当の勤務をこなしていたことになります。

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